特集

インタビュー Vol.71
日本戦後ジャズ史そのもの。ジャズ愛に人生を捧げた華麗なる90年!!
北村英治

クラリネットをやるきっかけは?

17歳の時に、友達が親に買ってもらったというクラリネットを学校に持ってきて、吹こうとしてみたんだけど音が出なくて、僕が借りて吹いたら吹けちゃって、それで僕は自分が天才だと思い込んでしまい(笑)それがきっかけでクラリネットにのめり込んでいきました。友達のクラリネットだから家には持って帰れないので、竹箒の柄を切ったもので指の練習をしていましたね。その後、19歳になってから自分のクラリネットを手に入れて大学の部活にも入って演奏していました。


2019年7月3日、北村邸にてインタビュー。後ろにかかる絵は北村さんの作品

音楽ができる環境を作ってくださったご両親はどんな方でしたか。

父は滋賀県出身ですが、仕事で新潟に勤務した時に母と出逢って結婚したそうです。兄弟は9人で、女4人、男5人の、僕がいちばん末っ子でした。父の仕事は、逓信省でTYK式無線電話機を共同発明し、後に東京放送局(現NHK)開設時の技師長でした。仕事で海外に行く機会が多くて、外国の家庭では、どこの家の子供もみんなピアノを弾いているから、うちの子供達も5歳になったらピアノを習わせるというのが父の希望でした。それで兄弟みんな、5つになったら義務的に習わされたのです。その父は50代の若さで僕が4歳の時に亡くなってしまったのですが……。
母は新潟出身の武士の家系で、兄弟や親戚には医者や薬屋が大勢いました。その母も終戦後、僕が17歳の時に若くして亡くなりましたが、母は父の意志を受け継いで、僕ら子供達9人にクラシック・ピアノを習わせてくれたのが有難かったですね。二女は父がイタリアからヴァイオリンを買ってきて習わせ、音大を卒業しましたが、嫁いでからは演奏しなくなりました。兄弟の殆どは医学博士、工学博士、薬学博士になり、勉強するのが好きだったみたいで、何かを専門的に研究する道を選びましたね。
兄弟全員がピアノのお稽古はしていたものの誰も音楽の道には進まず、僕もピアノを習うよりも兵隊ごっこをして遊んでいる方が面白かったくらいなんですが(笑)、そんな中で音楽家になったのは僕ひとりだけでした。でも、子供の頃に両親が早く亡くなり、僕の学費を兄貴が出してくれていたので、兄貴にクラリネットをやりたいと言ったら猛反対されました。
ただ、長男と次男は戦争に行っていますが、三男、四男は東大の特待生で月謝がいらなかったので、戦争中の研究要員育成で戦争に行っていないんです。月謝いらないのに、親からは月謝をもらってお小遣いにしていたみたい(笑)
兄貴たちはみんな頭が良くて、僕はバカだから慶應に行きなさいって言われましてね(笑)、でも慶應に入ってすごく得しました。僕は3回くらい留年しているので友達が多くて、今年90歳になる人と89歳になる人と88歳になる人とみんなが同級生になるので、3回も同窓会をやっちゃって(笑)この年齢になっても、まだ音楽の友達や悪ガキの友達が沢山いて嬉しいですね。

その当時のご家族のお写真はございますか?

空襲でみんな焼けちゃって僕は持っていないけど、たった一枚だけ親戚が持っていたのをマネージャーがスキャンして大事にしてくれています。
母のことで、こんなこともありました。空襲警報が鳴ったので防空壕に逃げたのですが、焼夷弾が落ちてきて、渋谷区一帯が全焼するほどの空襲にあい、家の消火にバケツの水で消しに入ったのですが、家も柱から何から全焼した焼け跡にオーブンだけがそのままの形で残っていて、そのオーブンの隙間からいい匂いがして、その中に入れておいた2羽の鳥がうまく焼けていたのです。母がみんな徹夜で消火作業で疲れているし、血糖値が下がるから、早くみんなで食べようって、防空壕からワイン持ってきて、みんなでワインを飲みながら食べたという何とも豪快な母でしたね(笑)


9人兄弟の末っ子、生まれたての北村英治(右端で母に抱かれて、渋谷の北村家にて)

今年は1951年に南部三郎クインテットでプロとしてスタートされてから、68年目になりますが。そしてなんと今年は90歳、卒寿ですね。

数えで行くと本当は去年だったので、何かやろうと思っていたのですが、忙しくて考えているうちに今年になってしまいました。でも大丈夫!まだ当分元気で吹けるから!(笑)


2019年のバースデーケーキ

サマージャズ全51公演出演の今田勝さんの次に最多出演の北村英治さん。海外フェスに出演のため一回だけ欠席でしたが、海外フェスといえば北村さんの音楽人生において大きな財産となるきっかけはモンタレージャズフェスティバル(アメリカ)ですね!

モンタレージャズ祭の創始者のジミー・ライオンズさんが来日した時に、音楽評論家の瀬川昌久さんにご紹介してもらって初めて出演した1977年(48歳の時)のモンタレージャズ祭で好評いただいて、それから毎年呼んでくれるようになって、1994年まで連続18回と1996年に出演し、合計19回も呼んでもらいました。モンタレージャズ祭をきっかけにそのフェスを観に来るプロデューサーさん達からまた声がかかって、コンコードジャズ祭、マウントフッドやサンノゼのジャズ祭、ヨーロッパ、オーストラリア等のジャズ祭にも呼ばれ、テディ・ウイルソン(p)、アール・ハインズ(p)、バディ・デフランコ(cl)、ビル・ベリー(cor)、スコット・ハミルトン(ts)など世界最高峰のミュージシャンたちとも共演して友達になれました。コンコードジャズ祭はレコーディングまでさせてもらえたり、自分で言うのも何だけど運がいいですね(笑)

このままアメリカに住みたいな、なんて思われませんでしたか?

仕事も結構あったしそう思ったことはありますけど、やはり日本がいいですね、気も遣わなくて自然体でいられますから。


1999年、L.A.インターナショナルジャズパーティでビル・ベリー氏&L.A.ビッグバンド

沢山いらっしゃる海外のミュージシャンの中で特に親しくされている方は?

テディ・ウイルソン(p)は決して派手じゃないですが、何て素晴らしいんだろうと思いますね。世界中どこで演奏しても変わらないことが素晴らしいですね。トロントで一緒に演奏したり、随分、一緒に仕事をしました。テディが僕に会うと「My Friend」と言ってくれるんです、僕はテディに言葉ではなく音で教えてもらったのですが、派手な弾き方ではないのに、あんなに心を打つ弾き方をする人はいないですね。他にもテナーサックスのスコット・ハミルトンやサド・ジョーンズが亡くなった後、カウント・ベイシー・オーケストラのリーダーとして引き継いだトロンボーンのデニーズ・ウィルソンとも親しくしています。今はミシガン大学で先生をしているので、レポートを書くのによく来日していますね。

北村さんの場合、英語もご堪能で通訳を挟まなくても良いですし、会話の支障は全くありませんものね。毎年来日されるグレン・ミラー・オーケストラのメンバーの皆さんとも親しくされていますよね。彼らも日本に来る時に北村先生にお会いすることを楽しみにされているのでしょうね。

そうですね、毎年よく来てくれて、会えるし僕も嬉しいですね。


1969年、バディ・デフランコ氏(ニュー・グレンミラー楽団を率いて初来日)に楽屋で面会

海外のお仕事の場合は契約など面倒なことはありませんか?

主催者によってみんな違いますが、モンタレーの場合はほとんど、ワーキングビザを取得して行きますが、ヨーロッパはパーミットだから割りと仕事は楽に行けますね。僕はアメリカのユニオンには入っていないんですが、大きなフェスに出演する時は特別なパーミットが出て、会員ではなくてもギャラはちゃんと貰えますね。イギリスもそうですね。

海外フェスの思い出は?

初めてモンタレーに出演した時にジョン・ルイス(p)が音楽監督をやっていたのですが、ジョン・ルイスと僕と二人っきりのステージで演奏して、本当なら緊張で固まっているはずなのに、ジョン・ルイスは僕が一番吹きやすいテンポで伴奏してくれたので、上手く吹けました。モンタレーに呼んでもらえたことが嬉しく、その気持ちの方が強くて、怖いもの知らずでしたね。7000人の観客がスタンディングオベーションで大盛り上がりでしたからね。その時の演奏が大好評で、それからジミー・ライオンズさんが毎年呼んでくれるようになったのです。僕はスイングのスタイルのままでいいのかな〜って思い、一時はビバップも吹きたくてやってみましたが、どうしても自分ではないんですよ。テディと一緒に演奏している時が一番自分なんだなと思いましたね。ジョン・ルイスがそれを知っていて、テディのテンポで伴奏してくれたので、本当に良かったし、スウィング・スタイルを自信を持って続けられるようになったと思います。

海外のミュージシャンとの想い出深いエピソードは?

僕の事務所の一部屋は防音室になっていて24時間練習できるんです。来日した仲間が僕の事務所に遊びに来てくれるんですが、バディ・デフランコ(cl)がその防音室に入ったらなかなか出てこなくて。スコット・ハミルトン(ts)なんか、「EIJIの事務所に住みたい」って言ってくれるほど気に入ってくれていますね(笑)他にも、想い出といったらそれはもう沢山ありますが、そういった他愛のないエピソードほど想い出深いですよね。


2016年、スコット・ハミルトン氏とリハーサル

サマージャズを51年もやっていると、時代の流れとともに、ジャズの形態も変わってきていますが、現代のジャズはどのようにお感じになられますか。

若い人は大変です。過去の誰かに似ていると「マネだ」と言われるし、新しい自分のスタイルをテクニックと理論で作ろうと思っても簡単にできるもんじゃないし。テクニックに走り過ぎると聴いていて面白く無い。だから、毎日、自分に正直に演奏するしかないんじゃないかなあー。正直に演奏すると、わかってくれる人が必ずいるから、それがたった1人のお客さんでもわかってもらえれば大成功でしょ。

YouTubeや、ネットの進化で世界中の音楽を簡単に聴くことができるようになって便利になる反面、コンサート会場まで足を運ばなくなってきていてライブの良さが損なわれつつあるのが残念ですが。

YouTubeで僕の音楽を聴いて、若い人たちが「なんだ!このおじいさんの演奏は面白いね!!」って興味を持ってくれるといいね(笑)でも、生演奏を聴いた人はもっといい思いをするんだけどね。一度生演奏で聴くと次からはYouTubeでも脳が本物の音に変換してくれるから、音の値打ちが上がるんですよ。

北村先生の日々の過ごされ方を拝見していると、人生の楽しみかたを教えていただいているようです。

イヤなヤツとは付き合わないし、美味しいものを食べて、好きな音楽を毎日やっている。そして無理なく生きている。これで僕は幸せですね。僕は、クラリネットを自己流で始めたので、村井祐児(東京藝術大学名誉教授)がドイツから日本に帰国したとき「教えて下さい」とお願いしたんです。モーツァルトのコンチェルトなんかを習いたかったのに、基礎が出来ていないと言いわれ、童謡の『ちょうちょう」の「ソミミーファレレードレミファソソソー」を3ヶ月も吹かされたんです。「NHKの時報」の吹き方も(笑)凄い勉強になりましたね。切り口がハッキリした音を出しなさいと言われました。


クリスマス用、自作の羊とブロッコリーのパイ

絵心もおありになり、事務所の壁には北村さんのお描きになられた絵が沢山飾られていますね。

自主企画のCDのジャケットを作るのに、経費節約で(笑)マネージャーに絵を描かされたんですよ。それが、描いてみると面白くなっちゃって、だんだん細かく描きたくなって、細い筆を買ったりしてね。絵も我流で始めたんですが、足羽先生(フランス芸術文化勲章受章・足羽俊夫)に見てもらったら「そのまま素直に描きなさい」と言ってもらえました。

ちなみに、今、恋はしていらっしゃいますか?

ん~~恋はしたいと思いますが(笑)クラリネットとジャズに恋してて、客席の美女までなかなか行き着かなくてね!とお答えしておきましょう(笑)

90歳を迎えて、今後、叶えたい夢はなんでしょうか。

いい仲間と満足のいく演奏ができればそれで十分ですね。今年の七夕の短冊には「宝くじが当たりますように」「早くオトナになりたい」と書きました(笑)


これからが人生の本番!!

【北村英治 プロフィール】
1929年4月8日東京に生まれ、慶應義塾大学在学中にクラリネットを学び、1951年南部三郎クインテットでプロデビュー、1954年自己のバンドを結成した。 57年文化使節として来日したベニー・グッドマンとジャムセッションを行う。バディー・デフランコや、リー・コニッツも研究する一方、ジャズ伝統のデキシーも自分のものとし、幅広い音楽家に成長した。
演奏会では木管の暖かく深みのある音色と独特のフレーズで聴衆の心を豊かに満たし、曲間のお喋りでも大いに楽しませてくれる。音楽だけでなく、料理通としてあるいはニュースキャスターやコメンテーターとしてもテレビ・ラジオで活躍している。
1977年モンタレージャズ祭(米国)に招かれ大好評を博し、1994年まで連続18回と1996年に出演した。モンタレージャズ祭をきっかけにアメリカはもとより、ヨーロッパ、オーストラリア等の大ジャズ祭に数多く出演し、世界的ジャズクラリネット奏者として活躍している。
1991~2000年、L.A.インターナショナル・ジャズパーティをビル・ベリーと共同企画し、このイベントでの演奏は「ジャズ・クラリネット界の沈滞を救った男(米国評論家レオナード・フェザー)」と評された。
スイングジャーナル誌に於ける楽器別人気投票でのポールウィナーは1960年から2010年同誌が休刊するまで続いた。その間、テディー・ウィルソン、アール・ハインズ、バディー・デフランコ、ビル・ベリー、スコット・ハミルトンとの共演も回を重ねた。
2011年〜2014年、毎年5月に開催されるノリッジ・ジャズ・パーティー(英国)に連続出演し、英国のジャズ誌「ジャズ・ジャーナル」2014年4月号には「北村英治のジャズ人生」の記事が掲載されると共に表紙写真となり、英国のジャズファンに親しまれている。
レコードアルバムの数はすでに100を超し、代表作としては、テディ・ミーツ・エイジ(トリオ)ディア・フレンズ、スウィング・エイジ、ノー・カウント(コンコード)ウイ(東芝)アワデライト(GML)エイジ・ミーツ・スモーキン(CAB)フル・クラリネット、ドリーム・ダンシング、ジャズパーティ、スケッチ、デリバリー、セッション、サンタクラリネット、デリシャス、ヴィンテイジ、セッション2、クッキング(Jazz Cook)等がある。
日本国内ではテレビ、ラジオ出演、各地でのジャズ祭、コンサート、ディナーショウ、ジャズクラブへの出演と共に、中高生、社会人の吹奏楽団やビッグバンドの指導も手掛けている。 有限会社スウイングエイジ代表取締役、日本クラリネット協会会友。
1978年 南里文雄賞受賞(スイングジャーナル誌)
2007年4月29日 旭日小綬章受章

(編集後記)
北村さんとお話しをしていてあっという間の3時間でした。当時の貴重なエピソードがてんこ盛りなので、何時間あっても聞き足りないくらいでしたが、北村さんは人生を楽しく生きる達人!!しなやかに人生を楽しむ余裕というかロマンと言いますか、それが全て音楽に反映されているのですね。
備わっているもの。それはきっと前世から受け継いだ、人が寄ってきてみんなに愛される天性の魅力なのだと思います。
かつてはテレビのコメンテイターのレギュラー出演もされていた北村さんですが、90歳になられた今も語り口がとてもおだやかで品格があり、人を幸せにする人間力と言いましょうか、とにかく素晴らしい、凄いとしか言いようがない完璧な北村英治さんです。
名奏者北村さんの練習室の壁に、アメリカの名俳優、クリント・イーストウッドさんとのツーショット写真が飾られていました。北村さんが出演していたアメリカLAのセンチュリープラザホテルで行われていたジャズ・パーティに来ていたそうです。北村さんはまさに、日米友好のアンバサダーであり、日本ジャズ界を照らす太陽です!!

写真協力:ジャズクック(カックン)
インタビュアー:佐藤美枝子

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