インタビュー Vol.67
音楽とは「平和」なものであるべき
見砂和照(みさご・かずあき)


見砂さんが音楽を始めたきっかけはやはりお父様の影響で?
最初に音楽を始めたのは小学校の5年生です。それは親父の影響じゃなくて、姉がエレキ・バンドをやってまして、そのバンドを見に連れて行ってもらった時にドラムの生演奏を初めて目の前で見て感激して「うわーすごいなあ、こんなことやれたらいいな」という感じでドラムに憧れて始めました。

 
どのようなジャンルの音楽を?
いわゆるポップ・ミュージックです。一番最初の頃はベンチャーズをやっていました。中学生や高校生の時は、同級生や先輩でバンドを組んでいまして、「ママス&パパス」などのアメリカン・フォークをやったり、やがて「ブラジル’66」みたいなボサノヴァのサウンドを目指したりもしていました。学生時代は様々な音楽を一生懸命やっていましたね。

 
音楽の専門教育は?
音大や専門学校などできちんと先生について習ったことはないです。学生時代にヤマハポピュラーソングコンテストに出場して、その時の審査員の先生方が「面白いバンドだから指導したいんだけどやってみないか」って言われて、それで2〜3週に一度といったペースでヤマハの先生方に指導を受けたことはありました。それまでみんな独学で、耳から入ってきた感覚だけでバンドをやっていましたね(笑)

プロ・ミュージシャンとなるきっかけは?
私が高校生の時ですが、当時兄がキャバレーのバンドのリーダーをやってまして、それを夏休みに観に行ったんですけど、そこでチェンジバンドのドラマーが蒸発しちゃったっていうんで、「お前、太鼓叩けるんだったらちょっとバイトで叩いてやれ」って言われて演奏させてもらったんですね。それがプロの世界へ足を踏み入れる第一歩でした。なにがしかのギャラも頂きながらしばらく参加していたんですけど、その当時のミュージシャンって、やんちゃな方ばかりだったので、夜の演奏の仕事がちょっと嫌になっちゃったんですよね。そんな時に、高校生の時指導して頂いたヤマハの先生の方がから声をかけていただいて、ヤマハ音楽振興会のスタッフとしての働き口を紹介していただきました。

 
ヤマハ音楽振興会のスタッフですか!ミュージシャンではなく?
そこでは2年半ぐらい仕事をやらせていただきました。スタッフといっても、多くのプロ志望のミュージシャンも勉強しながら働いていて、新しく知り合った仲間とまた4人組のバンドを組みましてセミ・プロみたいな活動をしていました。自分以外のメンバーは作編曲を学んでいたので、メンバーそれぞれのアルバムを制作しました。空いているスタジオを見つけては地道にレコーディングをして2年がかりの作業でした。その時世話してくださったポリドールのディレクターさんが、井上陽水さんのディレクターと仲が良くて、しょっちゅうレコーディングを見に来てたんですね。それで、その時にその陽水さんのディレクターに声をかけていただいて、スタジオ・ミュージシャンとしての道が開けていきました。生まれて初めてスタジオでの仕事に行ったのが陽水さんのレコーディングです。すごく売れた『氷の世界』っていうアルバムです。キャバレーでちょっと叩いてたって言ってもアマチュア上がりですから、右も左もわからずに、もうがむしゃらでしたね。

 
いきなり井上陽水さんですか!それはすごいですね!
それをきっかけに、いろいろと呼んでいただけるようになりまして、高中正義さん、後藤次利さん、深町純さんとか、そういう面々でレコーディングする時に呼んでいただいたりしました。

特定のバンドでの活動はなさっていたのですか?
上條恒彦さんがヤマハのコンテストでグランプリを獲った時のバンドの方がしょっちゅう練習しに来てたんですね。こんなバンドで太鼓叩きたいなんていつも思ってて、話すきっかけがあって話をしたら「じゃあ、お前入れよ」って言われて、いきなり上條さんの本番ステージに乗せられまして...それがオーディションというわけだったんですね。何とか及第点は頂けたみたいで、それからステージで演奏させていただけるようになりました。そういったステージでの演奏活動をしている中で、大橋純子さんと知り合いまして、遊びでセッションしてみたら凄くて、佐藤健さん達と一緒にバンドを作りました。それが「大橋純子と美乃家セントラルステイション」で、その時は自分が23歳くらいの時だったと思いますが、それがプロとして初めて自分達で立ち上げたバンドですね。

 
美乃家セントラルステイション以外のバンドでもご活動を?
セントラルステイションでの活動はそれほど長くもなく、3年くらいですね。また別の仲間の一人に南佳孝さんがいたんですけど、その佳孝さんのバンドと一緒にライブをやるうちに佳孝さんのサウンドが面白くなって一緒に活動したりしていました。それから、表立っての活動はちょこっとしかやってないですけど「SHOGUN」という凄いバンドがありまして、松田優作の『探偵物語』の音楽を担当したりしていましたが、そのバンドのドラム担当だった山木秀夫さんが脱退したというので誘っていただいて、メンバーに加わったこともありました。

 
ひたすらロック・バンド一筋だったんですね。まだラテンの「ラ」の字も出てきませんね(笑)
そうですね。私が27〜28歳くらいの時だったと思うんですけど、親父に「ビッグバンドやっとくと、潰しが効くからキューバンで叩いてみないか」と言われて、それがキューバンに入るきっかけになるんですが、でもそれまで自分はちゃんとしたラテン音楽なんて殆どやってこなかったですから、もうわからないことだらけでしたよね。

お父様の活動を受け継いでいくんだという考えはその頃からあったのですか?
いえ、まったくありませんでした。自分がやってきた音楽はまったく別のジャンルでしたし、親父は一代でキューバンを築き上げてきましたので、やっぱり親父が自分で幕を閉じるのが一番格好いいんじゃないかって思っていました。1979年の頃ですけど、親父は元々血圧がすごい高くて、メキシコとか高地に行くと血圧がものすごく上がっちゃって具合悪くなって、それで弱気になったのか知りませんけど「キューバンを継がないか?」と言われたことがあったんですね。でもその時はきっぱりとお断りしました。ドラマーとしての勉強のためにキューバンに参加させていただきましたけれど、バンマスとして継いでいくことはできないと思っていました。

 
1980年にキューバンが解散して、90年にお父様が他界されましたが、その頃のご活動は?
80年にキューバンは一旦解散という形になりましたが、時々臨時でコンサートを行っていました。それにはドラマーとして参加させていただきましたね。そして、90年に親父が亡くなってからも、古くからのメンバーであった大高さんや納見さんに音頭を取っていただいてメモリアルコンサートを開催しました。そうしたら、覚えのない請求書が届いたわけです。これは当時メディアでも記事になりましたが「東京キューバンボーイズ」という名前が勝手に商標登録されてしまっていて、キューバンの名を冠したコンサートをやるなら金を払えと。そんな事件があって、コンサートの開催が危ぶまれてしまったんです。私は、親父が亡くなってからも、何年かに一回とか、親父の築き上げた音楽を偲ぶメモリアルコンサートを平和にやっていければいいかなと思っていたのにそういう事件が起きてしまって。この問題はしばらくして解決したんですけど、同じことが起こらないように自分で登録商標は獲得しました。

 
そんな事件があったのですね。キューバンの名称も守り、いよいよバンド再結成の流れですか?
いえいえ、その時もバンドを再結成するつもりは毛頭ありませんでした。それから数年が経った頃でしょうか、キューバ大使館から突然お声がかかり、「東京キューバンボーイズの功績を讃えて表彰をしたいから、バンドを束ねてキューバへ行ってもらえないか」って言われたんですね。それで大高さんと納見さんに相談したら「じゃあ、それだったら再結成してお前リーダーやれよ」ってなって。それが再結成をするきっかけになったんです。

 
強制的に再結成させられたみたいですね!(笑)
はい、そうなんです。その時はあまりに突然の話だったんで困っちゃいましたけど、でももし自分がリーダーでやるんだったらやっぱり親父の功績に泥を塗ることはできませんから、自分がしっかり勉強して、腹をくくってやらなければならないと思いました。そこからもう必死でラテン音楽のことを勉強しながら、どうにかこうにか14年経ったというのが今の形ですね。もともとラテン音楽は嫌いじゃなかったんですけど、ただ専門的に勉強したいというところまではいかなかったし、あくまでドラマーでしたから、バンド全体のことをきちんと勉強してちゃんとしたものを作っていかなければっていう思いがありました。

確かにバンドリーダーには、音楽的なことだけでなく経営的な手腕も求められますね。
バンドへの取り組み方にはどうしても個人差がありますよね。少人数のバンドだったら共通の方向に進めやすいですが、人数が多いとそうもいかない。音楽を追求したい人、ただ生活の為に楽器をやっている人、現実的には色々な考えの人が居て当然です。今も昔も、大所帯のバンドならば同じような悩みがあると思います。色々なタイプの方が居たのを見てきたので、再結成をするならばやっぱり皆んなで一つの方向を目指せるような、そんなバンドにしたいなという気持ちが強くありました。
親父のバンドのサウンドを継承しながら、進化しながら、皆んなで“一個”になりたいっていう気持ちです。それを今でも実践しているところです。

 
いよいよ新生キューバンの始動ですね!2005年の再結成にあたって、メンバーはお父様時代のメンバーも沢山参加されていたのですか?
親父時代のメンバーとはあまり親しくしていなかったので、キューバに行った時は大高さんがリーダーを務めるラテン・ビッグバンド「オルケスタ・カリビアン・ブリーズ」のメンバーの方々に多くお手伝いいただいて、それに少ない人数を補充してフルバンドの体裁を保つことができました。それから4年くらいかけてメンバーを固定化していって、今のメンバーとほぼ変わらない状態になりました。それから約10年ですかね、時々はエキストラのプレイヤーは入りますけど、ほとんど同じメンバーでずっとやってきています。それだけ信頼できる仲間達ですし、仲良く楽しく活動できています。
音楽って「平和」なものであるべきなんです。もちろん、仕事だしこれで食べていますから、そんな生易しいことを言っているだけではいけないのでしょうけど、でもやっぱり集まって一緒に音楽を演奏するからには、バンド内が「平和」でなければいい音楽はできません。これまでもこれからも、その気持ちは変わりません。

 
お父様時代と今のキューバンでは、音楽的に異なる部分はありますか?
メンバーも異なればサウンドももちろん異なりますけど、オーソドックスなところは大部分守っています。色々試行錯誤してみた時期もありましたが、やはりお客様もあの古き良き時代のキューバン・サウンドを楽しみにされておられる方も多いので、その期待に応えられるように「いかにもキューバンボーイズらしい」サウンド作りを目指しています。
ただ、プレイヤー目線から言うと、単に型にはまったものでない新鮮なものにもチャレンジしたいという前向きな願望もあります。やっぱり定番の中にそういう新しいものも少しずつプラスして「今のキューバン」という形をお客様にご提示できればなって思っています。それで楽しんで喜んでいただけなくては意味がないので、常にお客様や諸先輩方の声には耳を傾けています。

キューバンさんのライブは、ステージ構成にも緩急があって飽きさせないですよね!
ありがとうございます。こういうことを言ってしまってはいけないのですけど、ラテン・ビッグバンドって、CDなどの録音を聴いてもあまり面白くないんですよね(笑)言葉を選ばずに言うと「小さくまとまって」聴こえてしまうんです。やっぱり、ラテンはライブなんですよね。会場で生で聴かないと、あのダイナミックな感じは伝わらないです。ですから、皆さん、ぜひライブに足をお運びください(笑)
 
ライブの話が出たところで、7月12日の結成70周年記念コンサートのお話をお聞かせください。
まず、このコンサートの開催時期について、実は昨年末の時点では「2020年に入ってから開催してもよいのでは」という話が出ていたのですが、親父時代からのメンバーでもあり、ラテン・パーカッションの世界では国宝級と讃えられた納見義徳さんの体調が急激に悪くなってしまってきていたので、納見さんがお元気なうちに開催したいということでJPMAさんに相談して7月12日という日程でコンサートを組んでいただきました。しかし、残念なことに2月に納見さんは旅立ってしまいました。

 
納見さんのことは本当に残念でした...。納見さんのためにも、7月12日は盛大なコンサートにしましょう!
そうですね。この70周年コンサートでは、本当にラテンを愛する仲間を集めて「これぞラテン!」というステージ作りにチャレンジしてみたいと思っています。もし親父が生きていたらこんなこともやってみたかっただろうな、あるいは見たかっただろうな...などと想像しながら企画していったら、演奏家だけでなく、シンガーやダンサーも含め出演者は総勢50名を超えてしまいました。
これまでの周年コンサートは、いろいろな著名なゲストの方に参加してもらい、御祝いムードで盛り上げていただきましたが、今回はキューバンの本質的な部分をご披露したいと考えています。既に解散してしまいましたが、原信夫とシャープス&フラッツとキューバン で、親父の時代から共演してきた「ビッグバンド・スコープ」をオリジナル・アレンジで再現したいと考えています。1950年代に大ヒットした企画でラテンとジャズの2バンドが交互に演奏するスタイルですが、前田憲男さんや美保敬太郎さんの編曲は今聴いてもとても素晴らしく、是非当時のままのアレンジで再現したいと思います。この企画にアロージャズさんが快く引き受けてくれたので大変感謝しています。もう一つの目玉は、キューバの華やかな音楽をレビュー・スタイルでご覧いただこうと思っています。日本で活躍しているキューバのミュージシャンや日本の中でも、特にキューバ音楽に造詣が深いパーカッション、ヴォーカル、ダンサーに参加してもらい、全編ノンストップ、全編書き下ろしのアレンジでお聴かせする予定です。おそらくこの日しか体験することができないものになるでしょう。もちろん、キューバンの十八番の定番曲もご用意しています。
「今のキューバン」というものを、全身全霊でご提示したいと思いますので、ぜひ多くの皆さまにご来場いただければ幸いです。

 


 

近年では、東京キューバンボーイズのマエストロとしてのご活動が注目される見砂和照さんですが、十代の頃から錚々たる歌手やバンドの方々との共演を重ねてきた凄腕ドラマーであり、いわゆる「ニューミュージック」という新しい音楽ジャンルが発展・変幻していく最前線に常に居ながら、あらゆるスタイルの音楽を自然と吸収してしまう柔軟なミュージシャンであったということを今回のインタビューを通して伺い知ることができました。その柔軟さと懐の広さが、ベテランも若手も混在する「東京キューバンボーイズ」というある意味特殊なバンドでの求心力となり、伝統を守りながらもバンドに新しい息吹を与える原動力になっているのではないかと感じました。そして音楽は“平和”で“楽しい”ものでなくてはならないという熱い想いに共感いたしました。伝統あるバンドを率いるという重圧を感じながらも、音楽を誰よりも楽しんでいるのは見砂さんご自身なのかも知れませんね。熱狂の結成70周年記念コンサート、本当に楽しみです!

インタビュアー:関口 彰広
カメラマン:Koji Ota
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