インタビュー Vol.65
35周年を迎えて、未来への夢を活力に!
NORA(オルケスタ・デ・ラ・ルス)


昨年は、著書の出版おめでとうございました。本のタイトルも最高ですね!
ありがとうございます。3年かかってようやく出すことができました。色々書き過ぎてしまって、まとめるのが大変でした。「日本ラテン化計画」、進行中です(笑)。

 
小さい頃はどんなお子さんだったのですか?
踊って歌うのが大好きな子供でしたね。ただ、まだラテン化(笑)されていなかったので、今みたいにワッーと盛り上がるわけでもなく、歌ったり踊ったりするのが好きなごく普通な子、という感じだったと思います。
物心ついた2歳頃から日本舞踊とバレエを習っていました。母が宝塚歌劇団が大好きで、劇場にもよく連れて行ってもらいましたね。実は私、子供の頃ずっと宝塚に入りたかったんですよ。小学生の時に男役がやりたいと思って一生懸命にバレエのレッスンに通っていたのですが、家が引っ越しちゃって……。レッスンに通えなくなってしまったのですが、それでも宝塚にはずっと憧れていました。「小学校を卒業したら宝塚に入りたい」と母に言ったら、「ダメ」って。その頃、実は私、宝塚は東京にあると思っていたんですよ(笑)。まさか兵庫県にあるなんて思っていなかったので……、それは親も反対しますよね(笑)。

 
小さい頃から人前でパフォーマンスをすることがお好きだったのですね。
実は結構緊張するタチなので「人の前に立ちたい」っていう願望が強いわけでもないんですよ。ただ、踊りたい、歌いたい、踊りが好き、歌が好きっていう想いが強くて。小学4年生の時にバレエの発表会で初めてソロを躍らせてもらった時に、「自分の場所はこれだ!」という感覚を持ったのを覚えています。それから、ピアノも習っていたのですが、発表会で「人形の家」という曲を弾いた時に、ただ譜面通りに弾くだけではつまらないなと思って、感情を入れて波を作るような感じで弾くのが面白く、そこで音楽を表現することの楽しさを初めて経験しました。その後引っ越しをしたことによって、バレエもピアノもレッスンを続けることができなくなってしまったのですが、子供心に、何となくそういった芸事の道に進みたいという夢は抱いていましたね。

その夢を追いかけてサルサへの道へ突き進んで行ったのですか?
いえいえ、当時はまだサルサの存在さえ知らなくて、紆余曲折はありました。宝塚への夢が破れて(笑)、地元の中学校に進んだのですが、ちょうどその当時はバレーボール・ブームで、「サインはV」や「アタックNo.1」などが流行っていたんですよね。兄がバレーボールをやっていたこともあって、私もすっかりバレーボールにハマりました。のめりこんでいたら、踊りでは使わないようなところに筋肉がついちゃって、「あー、もう踊れないなー」なんて思うようになり。高校でもバレーボールが大好きで熱中していたのですが、周りにたくさん居た音楽好きの友達からも影響を受けました。その頃は特にQueenとかKISSが流行っていて、私はKISS派だったのですが、日本武道館でのコンサートを観に行ったりしましたね。そして、その当時はとにかくバンドブームで、猫も杓子もみんなギターを弾いていたような時代でした。私も「バンドやってみたいなー」とは思っていたのですが、バレーボール部でキャプテンになっちゃったりして燃えていましたから両立はできなくて。それでも歌うことは相変わらず好きでしたので、普段から周りの友達相手に歌手のモノマネなんかをしては喜んでもらっていたんですよね。そうしたら高校3年生の文化祭の時に友達のバンドからボーカルを担当して欲しいって誘われまして、それで歌ってみたのが初めてのバンド経験です。

 
それで熱が再燃して音楽の道へと?
そうですね。高校卒業した頃、初めてスティーヴィー・ワンダーが来日した時に彼の存在を知って衝撃を受け大好きになりました。どれもいい曲だし、もの凄く歌が上手で、もう「最高!神様!」と感動しました。当然スティーヴィーからも影響を受けて、もっと音楽をやりたいという気持ちが収まらずに、実は高校卒業後の浪人生時代にもこっそり(笑)バンドを続けていたりしました。一浪の末、晴れて大学生になって、「これで堂々とバンドができる」と意気込んで、いくつかのバンドに参加したのですが、大学のバンドはあまり面白くなかったんですよね。そんな頃に、当時開催されていた「East West」(1976〜1986年 ヤマハ主催のアマチュア・バンド・コンテスト)を観に行きまして。シニアの部でグランプリになった爆風銃(バップガン/爆風スランプの前身)というファンクバンドが格好よくてファンになって、ライブにも通っているうちに、リーダーでドラムのファンキー末吉さんとも話すようになりました。ある時、末吉さんが米軍キャンプでドラムを叩くというので観に行ったんですね。リハーサルの時に、チャカ・カーンの曲なんかを一緒に口ずさんでいたら、黒人のミュージシャンの人に「君、コーラスできそうだね、一緒にやろう」と誘ってもらいました。
それがミュージシャンへの最初の入り口でした。
 
ミュージシャンの入り口に立った頃は、まだラテン化されていないわけですね(笑)。
はい(笑)。コーラスの一員としてディスコなどで演奏し、一応ギャラが貰えるセミプロみたいな活動がスタートしました。
「East West」には日本中の実力のある若手ミュージシャンが集まっていて、その時にジュニアの部で優勝した「寿限無」という高校生のフュージョン・バンドがあって、そこに大儀見元と、江川ゲンタが居たんですけど、「高校生なのに凄いことやってるなー、格好いいなー」って思っていて。彼らと知り合いになった後、「新しくファンク・バンドをやりたい」という話しが出はじめ、シニアの部に出ていたミュージシャンと一緒になって作った「ATOM」というバンドにヴォーカルとして呼ばれました。
当時、大儀見は私より先に「サルサ」という音楽に触れていたんです。彼はパーカッショニストなので、サンタナのパーカッショニストがキューバ人だったこともあり、ルーツを探って、サルサに行き着きゾッコンになっちゃって。もう、サルサの話しかしないくらいでしたね(笑)。私にも「サルサは最高だ!絶対に聴かなきゃダメだ!」と言うので半ば強制的に聴き始めたのです。最初はスペイン語がわからなかったし、歌がパーカッションみたいだな、でもやっぱりリズムがいいなー、自然に体が動くなーって思って。そういえば私は踊りが好きだったし、体揺らしていると気持ち良くて、他の音楽と違うグルーヴがあるし。それでちゃんと聴くようになりました。当時はスタジオに入ると皆リハーサル中にパーカッションばっかり叩いてるんですよ。で、私も何かちょっとやってみようかなーって思って。それで、どんどんハマっちゃうんです、やりだすと。歌に関しては周り見たらサルサを歌う人がいないし、「じゃあ私、歌ってみようかな?」って(笑)。
その頃サルサを歌う女性なんてセリア・クルースくらいしか居なくって、他は殆ど男性だったんです。まずはセリアの曲とか、キーの高い男性の曲から歌い始めました。耳でスペイン語の歌詞をとって。ATOMの時からそういうラテンの曲を少しずつやりだしました。その後、ATOMが解散した頃にオルケスタ・デル・ソルのライブを初めて観に行き「かっこいい!日本人でもサルサができるんだ!」と感動。当時はプエルトリカンのご夫婦が歌っていたんですよね、デル・ソル。だから、ちょっと歌は難しいかもしれないけど、演奏はできるなーと。若い人達のサルサバンドはないし、やってみようか?!ということで大儀見とサルサバンドを作ったのがデ・ラ・ルスの始まりなんです。

デモテープを持って中南米に行かれたとか?その行動力がすごいですね。
それはイメージだけで、その話だけつまむと「いきなり行ってすごい行動力!」みたいに映ると思うんですけど、最初にニューヨークに観光で行ったのが21歳のときで。その後5年間お金を貯めて行っているんですよ。その間に想いは募っているわけです。だから、行った時はもう「何でもできることはしよう!」という気持ちでした。
知り合いのツテを辿って、パナマでラジオ局に出演させてもらった際にすごく反応が良かったので、ちょっと舞い上がったんですよね。やたらとウェルカムで、新聞には出ちゃうし、ラジオにも出ちゃうし、最後にはテレビにも出れちゃうし、「何これ!日本では考えられない!」と思って。その後訪れたプエルトリコでも反応が良くて嬉しくなりました。そして、とうとう帰ってきたニューヨーク!ここでは英語の勉強をちゃんとしようと思っていたので、英語の学校へ行きながらサルサ・クラブに通っていました。
ニューヨーク滞在時にニューススタンドで売っている「LATINA」という雑誌を読んでいたら、「RMMマネージメント」って書いてあるのを見つけて、「ここに電話すればいいんじゃないかな?」とピンと来ました。そのマネージメント会社がやっているコンサートの広告が出ていたんですよね。RMM(ラルフ・メルカード)マネージメントには有名なサルサ・スターばかり所属していたのがわかったので、まずそこに電話しました。受付のお姉さんの反応は「あなた、何言ってるの?」といった感じでしたけど。その頃はまだ英語もそんなに話せなくて、簡単なことを一生懸命喋るという感じだったのです。一度目の電話は切られちゃって。それでもこれで諦めちゃうのは悔しいなと思って、もう一度かけてちゃんと説明したら、私のことを覚えていてくれて、「ちょっと話してみるわ」と言ってくれたんです。
それでアポイントメントが取れて、RMMのオフィスに行ったんですよ。それがラテン音楽界の重鎮、ラルフ・メルカードとの出会いだったのです。でも彼は最初デモテープを聞いてくれなかったんです。「これで諦めるのは嫌だな」と思って、別のマネージメントの、ランディー・ソバ・マネージメントにも行きました。そこは割とすんなりアポイントを取れて、その時に運命の「リッチー・ボニージャとの出会い」がありました。
リッチーと初めて会った時、私がサルサを歌うことさえ信じてもらえなかったので、彼の目の前で歌ったり踊ったりしたら、それはもうビックリして感激してくれて。そこで、「みんなでニューヨークでライブをやるのが私の夢です。」と彼に伝えました。「アメリカだなー」って思ったのは、その場で歌が良かったら、道が開けるんですよ。それが凄いと思いましたね。日本だったらデモテープを送っても、何段階も経て会ってもらうとか、ツテがないと会ってももらえないみたいなことが多く、中々道は開けないですが、やはり「アメリカは違うな〜」と!思いが伝わるとトントン拍子に事が進む。そういった凄さがアメリカにはありますよね。
リッチーは、「もしニューヨークにみんなが来たら、俺がライブのブッキングやってあげるよ」と言ってくれて、実際にその2年後、彼のブッキングでライブをすることができました。そのことがきっかけで、デ・ラ・ルスのデビューは決まったわけです。今でもデ・ラ・ルスと私のソロでの海外の仕事のマネージメントは彼がやってくれています。30年以上の付き合いです。もう81歳でしょうか。現役でお元気です!!

 
デビューしてからすぐに人気急上昇でしたよね。
日本ではスペイン語のサルサなんて売れると思っていなかったので、取り敢えずCDが出せれば嬉しいと思っていたから本当に驚きました。セルジオ・ジョージというラテン界のクインシー・ジョーンズと言われているプロデューサーが、私たちのオリジナルの曲「サルサ・カリエンテ・デル・ハポン」を聴いて「絶対売れない」と断言したのですよ!でも「私たちのオリジナルだからアルバムには絶対に入れたいから」と主張したら入れてくれて。結果的には、中南米のみならず世界中でその曲をみんなが歌ってくれていて、本当にビックリしました。入れてよかった…。
「人の言うことはほどほどに聞いておかないと、自分の信じることを曲げて流されてはいけない。」とその時に学びました。「これだ!」というのは諦めずに貫かないと!

デビュー・アルバム『DE LA LUZ 』(1990)BMGビクター
 
バンドという大所帯を率いていくことは大変だと思いますが、女子1名で美女と野獣ですね(笑)。
エンジニアをずっとやっている人に、NORAは「猛獣使い」と言われています(笑)。今は猛獣はいなくなりましたね。いても野獣くらいかな〜。最初のメンバーは猛獣だらけでした(爆笑)。

 
ステージでの熱量は常に半端ないですね!
そうですね。激しさとか、盛り上がり方において、猛獣には猛獣の良さがありますね(笑)。でも長くやっていくのはなかなか難しくて。猛獣同士だから同じ檻の中にいてうまくいく訳がなく、私の知らないところで争っていたり。一緒に何かやるには、別の檻じゃなければ暮らしていけない。今のメンバーはデ・ラ・ルス史上、もっとも仲がいいですね。

 
ライブを拝見しましたが、バンドメンバーの皆さんの笑顔が最高です。
トランペットの2人は五反田靖が年上なんですが、佐久間勲とも凄く仲良しで良く飲みに行ったりして。伊波淑が入ったのも良かったですね。彼は猛獣ではなく野獣止まりで可愛い野獣ですね(笑)アマチュアの時代にデ・ラ・ルスの音楽をやっていたので、メンバーとしてやれていることが嬉しくて仕方がないようです。サルサバンドはパーカッションが元気がないと楽しくないので、今はみんなのバランスがとてもよく、いい雰囲気でやっています。

 
NORAさんも、落ち込むことってあるのですか?
子供のことでは相当悩みますよ。欲しくてやっとできた子供なのですが、仕事で会えない時間が多いので、会っている時にちょっと可愛がりすぎちゃったかな(笑)。今17歳ですが、楽器にはあまり興味がないけれど歌うのは好きなようです。子育てに関しては、主人が4割、私が6割くらいの割合で育てていますが、パパがママみたいな時が結構ありましたね。両方が仕事で留守にする時は母に見てもらいます。家族の支えがないと歌や音楽は続けられないです。人並みに悩みはありますよ〜(笑)。

 
バンドは一度解散されてますね。
93年末に4枚目"LA AVENTURA"をリリースした後、94年くらいには、もうやりたいことをやり尽くした感がバンドの中に出てきていました。"LA AVENTURA"では実際、"MOVE IT!"みたいな曲を作ってみたり、それまでのデ・ラ・ルスらしからぬこともトライはしたのですが。各メンバーの個別活動も忙しくなり、97年に一度解散することになりました。

 
テロがきっかけとなって再結成が決まったと聞きました。
解散後ソロで4年間続けていたところ、2001年9月11日にテロがありましたよね。それはそれはとてもショックな出来事で。ニューヨークにはやっぱり毎年行っていて思い入れもあるし、第二の自分の故郷のように思っていたし、倒壊したワールドトレードセンターの上層階にはサルサクラブがあって、そこでライブをやったこともあったのでとても辛くて。 テロで被災された人たちに対して、私たちで出来ることはないか考えた結果、メンバーが5年ぶりに集い、2002年にチャリティイベント「WORLD PEACE MUSIC FESTIVAL」を開催しました。それがきっかけとなって、再結成に至ったのです。

色んな国で演奏された中で一番印象に残っているライブは?
そうですね。ベネズエラだったのですが、観客数3000人と聞いていたにも関わらず、実際は3万人も入っていたんです。そのコンサートでは事前に出番がわからなかったのですが、デ・ラ・ルスが大スターのオスカル・デ・レオンの後にトリで歌うことになって。直前のニューヨークで歌った時は凄く受けて盛り上がったのに、ベネズエラの観客が全然動かなくて…。反応が凄く薄いのが怖かった。「日本人だけでサルサをやるのが信じられなかったのかしら?」などと色々と反省しました。
その会場では発砲事件があり、ダッシュで楽屋に逃げ込んだ経験もあります。最初のツアーで受けたニューヨークですが、翌年にマジソンスクエアガーデンでやった時にはまた反応が違っていて、どんどん新しいことをやっていかないと、ニューヨークで受け入れられていくことは凄く大変なことなんだなと思ったりもしました。「良い作品を作って楽しんでもらわなきゃ!」って強く感じましたし、お客さんにプロにしてもらったということですね。それまではCDだけ出せればいいやと思っていたわけですから、それではいけないって。ニューヨークの記者たちは褒めることもけなすこともするので、「デ・ラ・ルスは珍しいから最初は受けたけど、珍しいのはそんなに長くは続かないから、次何をやってくれるの?」って、言われたりもしました。

 
国連平和賞の受賞は素晴らしい快挙でしたね!
国連平和賞をもらったのは本当に嬉しい出来事で。ハードなツアーなどをやっていたら後からついてきたという感じでした。
授賞式はニューヨークの国連本部でありました。まるで自分のことじゃないような感じでしたね。国連平和賞を受賞した時は、ちょうどアメリカでレコーディング中だったので、デ・ラ・ルスのメンバーも全員行きました。夜に国連内部で、スペシャルパフォーマンスをすることもできて。ニューヨークはラテン系移民の方が多いので、それでプッシュがあったのではないでしょうか。

 
グラミー賞の授賞式はどこでされたのですか?
ロサンゼルスのアンフィシアターで行われました。売れているアルバムからノミネートされているのではなくて、今までの積み重ねでノミネートされたんだなっていう感じがすごく嬉しかったです。国連平和賞はニューヨークの国連本部でありました。いずれもまるで自分のことじゃないような感じでしたね。国連平和賞を受賞した時は、ちょうどアメリカでレコーディング中だったので、デ・ラ・ルスのメンバーも全員行きました。夜に国連内部で、スペシャルパフォーマンスをすることもできて。ニューヨークはラテン系移民の方が多いので、それでプッシュがあったのではないでしょうか。

 
メンバーの役割分担はあるのでしょうか?
いまのメンバーには役割分担が割とはっきりしていて。11人がそれぞれの役割をもち、広報、宣伝とかって仕事を与えた方が、互いに感謝しあうしそれがチームワークを保つ秘訣かもしれません。

 
昨年(2018年)の東京ジャズでオマーラ・ポルトゥオンド from ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ™とオルケスタ・デ・ラ・ルスの夢の共演が実現した感想は?
オマーラさんがとにかく素晴らしくて、一緒のステージに立たせていただいたことにメンバー全員が大感動でした!

 
世界でも凄く受けてきて、海外での活動から、日本に帰られて気付かれたことはありますか。
日本人のメンタリティは凄いんですよ。海外にいて分かることは「日本人は凄いな!」って。なんて信用できる人たちなんだろう、と。契約も口約束だけでもきちんと守ってくれるし、どこに行っても演奏するために整えられている環境も凄い。歌はその人のすべてが現れるもので、環境が整っていないと気持ちよく歌えない時があるので本当にありがたいです。日本人のメンタリティを持ちながらサルサをやるって面白いし、主にオリジナルを作って歌っているのですが、それがデ・ラ・ルスの個性だと思っています。様式美はサルサでもベーシックにあるのが日本人のテイストなので、その違いを楽しんでもらいたいですね。

 
バンド活動から得られたものは。
メンバー同士の個性が絡まりあってできた化学反応、ケミストリーかと思います。特にパーカッションなどは三位一体なので、みんなが揃っていないと成り立たない。合わせたことによって生まれるものは、もうまるで「地球上の一つの小さくなった社会」ですね。個性も性格もみんなが違う中で、合わせようとする力が大事だと思っています。11人の中の11色が回る感じ。尖っているものは回らないので、角が取れて円形になり、愛が生まれる。そこでバンドのケミストリーが生まれるのです。一人でやっているよりは揉まれて、人の意見もちゃんと聞くことで初めて知ることもあるし、物の見方の尺度が多角的になっていく。そうした経験が歌詞を書くことにも役立っていますね。

 
制作中のNewアルバムについて教えてください。
今回のアルバムではさまざまなテイストの楽曲をお届けしようと思っています。中にはビッグバンド編成の新曲もあったり。普段のデ・ラ・ルスは4管ですが、サックスも入ったフル編成のインストの凄くカッコイイ曲を相川等が作っています。楽しみにしていてください!!

 
35周年を迎えるにあたり今後の目標は。
デ・ラ・ルスで海外ツアーをやりたいし、今年はアルバムも出るのでまたファンの皆さんに届けて歌ってもらいたいですね。
学校公演も続けていくことで、若い世代にもサルサの楽しさを味わって欲しいと思います。今後、50周年を目指して、更に新しい作品を作り、7大陸からミュージシャンが集まって、チャリティ・コンサートができるくらいになったらいいな、と思っています。

結成35周年を記念して上梓されたNORAさん著作「人生、60歳まではリハーサル」
NORAさんとデ・ラ・ルスさんのラテンに賭ける意気込みが丸ごと詰まったユニークな最高傑作本!海外で権威ある数多くの音楽賞の受賞など、その足跡を記録に残すことで、デ・ラ・ルスがいかに凄いことを海外で成し遂げてサルサというジャンルを日本の音楽文化において市民権を与えてくれたのかと思うと、その功績は計り知れない。NORAさんご自身が人生の“本番”を迎えるとき、日本ラテン化計画は新しい年号とともに、更に若い人たちにも受け継がれていく音楽であって欲しいと思う。高齢化社会といわれている昨今、日本ラテン化計画名誉会長のタモリさんいわく「サルサ健康法!!」を実践し、NORAさんのように素敵な年齢の重ね方を見習いたいものです。

 
インタビュアー:佐藤美枝子
カメラマン:Akira Tsuchiya

許可なく転載・引用することを堅くお断りします。
 
タモリさん推薦。
サルサブームのトップランナーが綴る、これからの生き方のヒントが詰まった一冊。
ラテングラミー賞、国連平和賞、米国ビルボード誌11週連続1位…
サルサブームのトップランナーが、音楽活動35年で出会った言葉や人への思いを綴った処女作。
「悩んだ人ほど本物のポジティブになれる」
「後悔しないように生きる」
「まだ半分ある」
……様々な困難の中でも前向きに突っ走ってきた著者のエネルギーとは何か?
若くして悩んだり、壁にぶつかったと嘆いている人への応援歌となる一冊。
「人生は60歳からが本番」なのだから。

NORA著『人生、60歳まではリハーサル』
出版社:主婦の友社 / 判型:B6版 / 発行日:2018年7月 / 定価:1380円+税