インタビュー Vol.44
華麗なるデビュー50周年を迎え更なる挑戦を!
山本リンダ


 
●デビュー50周年おめでとうございます。リンダさんはお父様がアメリカ人のハーフでいらっしゃいますが、芸名はどなたがつけられたのですか。
母から聴いたのですが、父が「リンダ、リンダ」と愛称で呼んでくれていたそうです。スペイン語で「かわいい、愛しい」という意味で、女の子にはそう呼ぶのだそうです。事務所の社長さんにそうお話したら「ああ、それはいいね、山本リンダにしよう」と言われ決まりました。

 
●デビューはモデルさんからですか。何歳の頃ですか?
12歳の時です。ファッション誌「装苑」の少女というページでした。テレビデビューはNHKの「夢のセレナード」。日本初のカバーガールをさせていただいていました。クラシック系の番組だったんですが、プロデューサーさんがシャンソンがお好きで、岸洋子さんや芦野弘さんも時々ゲストで出られていて、二期会の方達も時々シャンソンを歌われたりして。シャンソンがとても好きになっていきました。

 
●「こまっちゃうナ」でデビューですが、いきなりスターダムにのしあがり、それが15歳ですか。
はい。事務所の社長さんが「この子に洋服を着せて演歌を歌わせよう」と言われ、遠藤実先生の所につれて行ってくださったのです。先生からどんな歌うたうの?って言われ、私が歌ったのがフランスギャルの「夢みるシャンソン人形」だったのです。そうしたら遠藤先生がポップス調の曲で「こまっちゃうナ」を作ってくださったのです。新聞社の方から「遠藤先生の曲でデビュー出来たのは幸せだよ。先生の歌はずっと心に残っていく歌なんだよ」と言っていただきました。

 
●最初の遠藤実先生はどんなかたでしたか。
遠藤先生は厳しくもほんとうに心暖かい方でした。先生が新宿にあるミノルフォンのビルに入ってこられるとみんながピリットして、厳粛な空気になりました。ご自宅でのレッスンの時は厳しいのですが、終わるといつも奥さまが手料理を作ってくださり、その時に先生はご自身の苦労話をしてくださるのです。先生の暖かい心にふれて、お話をききながら私の身体までジーンと熱くなり、涙が出てきちゃうんです。帰りも私達の乗る車が見えなくなるまで奥様とご一緒に手を振ってくださったり。今もその姿が目に焼き付いています。奥さまの手料理をご馳走になったのはリンダさんだけだよって、千昌夫さんに言われました(笑)僕なんかコチコチに緊張して食べれないのにって(笑)。

 
●その後、ガラッとイメージを変えて、阿久悠さんと都倉俊一さんのゴールデンコンビで「どうにもとまらない」、「狂わせたいの」、「じんじんさせて」、「狙いうち」など、当時としては奇抜なタイトルが斬新でした。
ゴールデン・コンビ誕生の歌になったのが「どうにもとまらない」なんです。最初はタイトルが「恋のカーニバル」というタイトルだったのですが、プロジェクトの会議で「どうにもとまらない」となりました。それで、そのあとのタイトルも「燃えつきそう」や「きりきり舞い」など次々に生まれて。あの当時はこういう感じのタイトルはなかったですね。歌手デビュー後、大好きな岸洋子さんや越路吹雪さんのステージを良く観に行き、沢山の夢や希望をいただいて、歌は本当に素晴らしい。私も先輩方のように長く歌い続けられる歌手になりたい。その為にもイメージチェンジをしたいと思って。でも「こまっちゃうナ」のイメージを変えるのは本当に大変でした。何度も挑戦をし続けて数年が過ぎたのですが、大雨の万博の時のある出逢いがきっかけで、後に私のプロジェクトチームが出来たのです。そして今までの山本リンダを全部壊して新しい山本リンダをつくろうということになり、「どうにもとまらない」が誕生したんです。詞も曲も衝撃的でカッコ良くて。望んでいたとおりの歌だ!と思って。これでダメなら私は歌手としてもうダメだろうって思ったくらいに心から感動しました。とにかく頑張ろうって。スタッフの皆さんも本当に頑張ってくださいました。歌のイメージがブラジルのコパカバーナとかの雰囲気なので、「おへそを出したら」との私のアイデアが通って、プロデューサーさんの「情熱的に色は赤と黒」との言葉に全員賛成で衣裳が決まりました。都倉先生のレッスンでは、私が嬉しくて微笑みながら歌った時に「絶対に笑うな!睨みつけて!声はぶつけるように腹から出して!」と注意を受けながら頑張りました。厳しいレッスンでしたが、これで私は変われると思うと本当に有り難かったです。

 
●阿久悠先生はどんなかたでしたか。
当時、阿久先生は歌手の方々とはあまりお会いになることはなくて、ご自分の持っているイメージを大事にするために距離をおかれているとうかがいました。ヒット記念のパーティーや先生が審査委員をされていたテレビ番組でお目にかかったりした時にご挨拶をする程度でした。でも一度だけ空港でばったりお会いした時にお茶をご馳走していただいた事があります。お顔はいかついけれど、とても優しいかたでした。先生は凄いかただなって思ったのは、あの時代は男性上位の時代で女性があまり表に出て来れない時代だったけれど、日本が平和で良い時代になっていくには女性がもっと自由にのびのびとしていかなければいけないって、そういう歌を作りたいって思っていたそうです。そこに私の歌のイメージを変えるっていう話が入り、「よし、リンダでやってみよう」って思ってくださったそうです。「♪〜この世はわたしのためにある〜♪」なんていうような歌詞が新しい時代を作っていったんですね。先生がそう思っておられた事を私の歌で実現してくださった事が本当に幸せだったと思います。

 
●精神力と生命力はどこから涌いでるのでしょうか。
やはり楽曲の力が大きいと思います。歌の世界の主人公になりきって歌うのが好きなんです。お腹が空いていたら歌えないので、しっかり食べてエネルギーを貯めてから歌います。そして、いらしてくださったお客様に音楽の力で希望や勇気をお届けしたい。幸せになっていただきたい。との思いでステージに立たせていただいています。

 
●本番は緊張されるほうですか。
緊張します。特に今回の服部先生の歌は緊張します。服部良一先生の歌は聴くほどに素晴らしいです。今までに色んなチャンスはあったはずなのに。「おしゃれ娘」の楽譜に昭和11年て書いてあって、そんなに昔の曲と思えなくて、何てかわいい歌だろう!って。「東京ブギウギ」などは何となく先輩方がお歌いになる曲と思い込んでいて、自分では歌う機会がなく、「銀座カンカン娘」も素敵だなって思っていたのですが、今回聴いてみて合うんですよね。でも、やっぱり緊張するんですがイントロが入ると少しほぐれるんです。この1曲1曲の歌詞に時代背景を感じてすごく意味が深くて、あの時代明るい歌でどれだけ多くの人たちが救われたのかって思いました。ブギウギっていうリズムが日本にもやって来て、夢とか希望とか沢山の力を運んでくれて。あの時代の人達が切望をしていた、世界が仲良くしていくって、この歌詞の中で「ブギを踊れば世界はひとつ 同じリズムとメロディよ」戦争が終わってみんなが仲良くできるって、アメリカは敵でみんな鬼だと思っていたのに、そうじゃなかったんだ、兵士もみんな同じ人間じゃないかって。服部先生の歌は本当に愛に溢れていて心から素晴らしいと思いました。今回50年目にして初めて歌わせていただくんだと思うと大事な大事な宝物なんだと思いました。日本がいちばん苦しい時に音楽で日本人を助けた方ですから。そして、そのあとに遠藤先生がつながっていくんですよね。


 
●先日もパリ祭を観させていただいたのですが、シャンソンがお好きなのですか?
そうですね、私はアダモやジュリエット・グレコ、シャルル・アズナブールやイヴ・モンタンも凄く好きで、岸洋子さんや越路吹雪さんの舞台はずっと観に行っていたんです。自分のコンサートではデビュー間もない頃からシャンソンを歌っていたんですよ。私の20周年のステージでもシャンソンのメドレーを歌った時にムッシュこと谷田部道一さんが観にきてくださっていて、谷田部さんの訳詞リサイタルに声をかけていただき、出演した事がきっかけで、1989年から毎年パリ祭に出演することになりました。

 
●石井好子さんも深緑夏代さんもご存命でいらしたシャンソン黄金時代でしたね。
そうですね。ずっとご一緒させていただきました。淡谷のり子先生もお元気で、特に大阪公演の時は必ず出演されていましたね。淡谷先生から「あなたシャンソンお上手じゃない、合ってるわよ、ずっと歌っていきなさい」と言っていただいて嬉しかったです。淡谷先生も本当に大好きで、おしゃれで素敵な先生でした。リリーマルレーンも色んなかたのを聴かせていただいたのですが、淡谷先生が歌ってらっしゃる歌詞を選ばせていただいて、私も時々歌っています。昔、渋谷のジャンジャンで定期的に淡谷先生がライブをされていた時も観に行かせていただきました。

 
●抜群のプロポーションとダンスフルなステージは、あの頃と全くお変わりないのも度肝を抜かれますが、普段は相当ストイックに鍛えていらっしゃるのではないでしょうか?
30代中頃まではいくら食べても太らなかったのですが、なるべく気をつけています。いろいろなステージに立たせていただくので、水泳をやったり、サウナスーツを着て汗をしっかりかくとか、ダンスは振付けがある時は特にレッスンしています。

 
●芸能界で特にお親しくされていらっしゃるかたはどなたですか。
マーサ三宅先生には歌唱法や発声法を一から教えていただきました。今も良くしていただいております。雪村いづみさんや高田恭子さん、女優の磯野洋子さん、チェリッシュのお2人とも親しくさせていただいております。

 
●芸能界を50年も第一線を走り続けてこられてみていかがですか。
私は芸能界に馴染むのは苦手なほうなのですが、歌がほんとうに好きなんです。私は両親を早く亡くし、兄弟もいないのですが、素晴らしい先輩や大切な友人、そしてファンの方々が支えてくださって、今日まで来れたのだと思います。



山本リンダさんといえば国民的歌手であり、大御所なのに凄く謙虚でいらして、ピュアさとエナジーさが相互するその生命力溢れるステージと、持って生まれた抜群のスタイルはデビュー当時と変わらず、いつまでもオーディエンスに夢を見続けさせてくださる本物のスターです。時代を先取りした、ビジュアル路線のハシリがまさに山本リンダさんではないでしょうか。その延長線上にもしかしたら阿久悠×都倉俊一ゴールデン・コンビから誕生したピンクレディに繋がっているような気がします。山本リンダさんという昭和歌謡の黄金時代を築いた第一人者が、戦前戦後を通じて昭和年代に多数の歌謡流行歌を作曲された偉大なるレジェンド服部良一さんの作品に挑戦します。

 

インタビュアー:佐藤美枝子
カメラマン:Koji Ota
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