インタビュー Vol.23
~ 昭和のハワイアンはエラかった ~
panelist 浅井愼平|白石 信|清水峰生|高木ブー


 
●あっという間に「ハワイアン音楽史」が3回目になっちゃいましたけど、同窓会の記念コンサートのようですね。

清水:でも2人亡くなったな。


白石:3人だろ。(中村順一さん、杉本いわおさん、三島敏夫さん)


清水:みんなお年だからね。。。

 
●1回、2回とおやりになっていかがでしたか?何かかわったこととか。

白石:そうだな、出演メンバーが減っていることだな。そんなこと言ってもしょうがないけどさ。


清水:80歳を越すと色々とあるよね。


高木:僕はね、心の彼女っていうのがいる。加藤紀子、モー娘の中澤裕子、AKB48の板野友美、ももクロの高木れに。向こうはそう思っているって知らないよ(笑)。僕の中で勝手に決めてるの。好きな人はいますか、と聞かれたときにそう答えてきたんだよね。そういうのが若さの秘訣かなって思ってる。



 
●今日コンサートを手伝ってくれている高校生も高木ブーさんのこと知ってますよ。

清水:そりゃあ、そうだよ。ドリフターズなんてCSで毎日テレビでやってるよ。


高木:あれはプロダクションが儲かってるけど俺のところには入ってこない(笑)


清水:昔、長さんが7割ってほんとの話?


高木:そう思ってください(笑)。雷様をやっているころ、なんで俺だけ長者番付にのらないんだって週刊誌持って長さんに抗議したことあるもん。還付金がどうのこうのと言われて誤魔化されたけどね。

 
●ドリフターズはハワイアンをやらなかったのですか?
高木:やらなかったね。荒井注は昔スティール・ギターをやっていたけど、ハワイアンでは食っていけないので、ピアノでロックをやっていくうちにドリフに入った。


清水:ハロナ(高木智之とハロナ・セレナーダス)は?


高木:順番があってね(笑)。ハロナやってダメでオールディーズやって、その次にコーラス。そう、当時コーラスだけのコンサートがあったの。ダークダックス、リリオ・リズム・エアーズ、デューク・エイセス、ブライト・リズム・ボーイズなどが出ていたコンサートに高木智之とハロナ・リズム・コーラスとして出てね(笑)。そのあとにニュー・フレッシュメンやって、ベンチャーズが人気でてきたときにはロジェ滋野とシャドウズをやって、それからジェリー藤尾とパップ・コーンズでバックをやってた。俺はもともとウクレレ弾きだから、バンジョーにしたの。ウクレレと同じ4弦だから。ウクレレのチューニングのバンジョーでデキシーをやったりしてた。それからドリフに入ったの。


白石:それは知らなかったな。


清水:ハロナからいきなりドリフへ行ったのかと思ってた。


高木:だからハワイアンはあまりでかい面できないんですよ(笑)。



 
●浅井さんは先ほどリハで「俺はお前に弱いんだ」を歌われていましたけど、どういう女性に弱いのでしょうか?

浅井:僕は写真家でグラビアとかで女性の裸を撮っていたわけだよね、金になるからやっていたのだけど嫌だからやめたんだけど。だから女の人って仕事場にいたわけだよね。だからそういうのとちょっと感覚が違う。美しい人だからって好きになることってない。ないってことはないけども(笑)。どちらかというと人柄に惹かれる。映画界でいうと監督は女優と結婚する。カメラマンは普通の素人と結婚することが多い。ようするにあまりものを喋らないで見てるという職業だから。今日はこんな話をしにきたんじゃないのだけど(笑)。

 
清水:いや、みんなのルーツを聞くわけでしょ?(笑)
 
●浅井さんのアーティスティックなプロフィールを語っていただければと。

 
浅井:話を聞いていると、みなさんそれぞれの時代があるわけだね。その裏には時代の流れがあって、嫌でもロックやハワイアンとかやっていたわけだよね。戦後の日本はそういう動きの中にあったわけだから。自由業の人達って時代の波にもまれてきたわけだよね。

 
清水:俺はわかんないだ、それが。波がなかったから。

 
浅井:でもハワイアンが全盛だったときから徐々に衰退していったところはみているでしょ?

清水:その中にいたから何故ダメになったか如実にわかるけだよ。


浅井:20世紀の文明と文化が激しく変わっていく中に、それぞれのポジションから波の中にいたわけだよね。みんなそれぞれのドラマを持っている。そんな感じがするわけだよね。こんな時代に生きていた人ってあまりいない。戦争はしてるし、復興もしてる。


高木:めずらしいよね。ハワイアンなんか戦前からもあるしね。日本という国は変な国だよね。話変わっちゃうけど、先日テレビで観たけど戦時中に南の国で日本人が野球をやっているんだよね。日本でストライクやアウトとか英語が禁止されていたときだよ。日本という国はほんとアメリカナイズされた国なんですよね。また、上海にジャズバンドがあって、南里文雄さんなどがやっていたわけじゃない。戦後、帰ってきてすぐにジャズをやってる。戦争のあとにヒットしたのがハワイアンとジャズなんだよね。




清水:上海バンスキングの人達が日本に来てジャズを復興させる。ハワイアンの場合には、昭和20年の10月にはもうバンドが仕事していたらしいね。というのは食うために。進駐軍の需要が多かったから、仕事はバンバンとれたみたい。


高木:俺なんかも進駐軍サマサマだもんね。


浅井:進駐軍の慰問でカウント・ベイシー・オーケストラが来たとき、一般の日本人は入れなかったのだけど、日本のバンドが一緒に出ていて、軍楽隊で帰ってきた人たちがジャズを演奏してて、「ラヴァー・カム・バック・トゥー・ミー」を日本人が略称で「ラバカン」と言って、ベイシーの前で「ラバカン」を演奏して「ベイシー、なかなかやるな!」と言っていたというエピソードがある。さっきの高木さんの話にもあったけど、そういう形でも音楽と接していたというか。欲があったというか、面白いと思ったらやっちゃうみたいなところがあったよね。


清水:バッキーさんとか進駐軍に行ってたわけ。僕の上に住んでいた、たしかウォーカー中将だったけな、入ってくる音楽が無秩序にでてくるという調達庁?というところが呼んでくれたとか。。。


白石:スペシャルAってやつだ。


清水:そうそう!キャンプに入るときは(演奏するきは)、そのライセンスによって金の払いが違う。


高木:あのパイナップルのバッチが欲しくってね。。。


浅井:A、B、Cと分かれてた。渡辺貞夫さんが言っていたのだけど、宇都宮からテストを受けに行ったら、下手すぎてランクに入らなかったと。でも仕事は出すから、というので一番安い仕事の枠の外に入れてもらったと。ハワイアンにはスペシャルAがいたらしい。


清水:バッキーさんが切り口だった。


浅井:査定するのが白人の将校なんだよ。そうするとねスイングなんですよ。黒人が査定していないんだよ。だからレベルが高い音楽よりもダンスミュージックとかが評価される。昔、いろんなミュージシャンにインタビューして知ったんだよ。


清水:戦前戦中もやってはいたのだけど、戦前は灰田さんがベースにやっていて、朝吹英一さんとかハマクラさん(浜口庫之助さん)とかいろんな人がやってる。戦中はほとんどが消えたわけでしょ。


白石:そうだね。名前変えたりとかね。


清水:ミネさん(ディック・ミネさん)や灰田さんが南の楽団とかと。。。そうそう、灰田さんの話を聞くと、NHKのレコーディングのときは好きな曲をやらせてもらったって。それが戦争中で一番忘れられなかったことだって言ってた。戦後も米軍向けの番組をやったり、ハワイアンとか南の国の音楽をながして「ハワイへ行ってみませんか?」とかやってたとか(笑)。それからバッキーさんが出てきて、大橋さんが出てきたんだよね。みんな兵隊帰りですよね。


高木:そう、みんな軍人ですからね。僕は憧れてたね。。。小学生のときに作文書いたもんね、大学でて将校になるんだって。


白石:俺もね、中学校の面接の練習のとき、将来の夢を同じようなことを言おうとしたら先生が親の跡継ぎとかにしなさい、と言われたね。みんな憧れた。




高木:俺は末っ子なんだけど、上の兄貴たちがみんな軍人だったから憧れていたのかもしれない。


清水:キャンプとか米軍の施設まわりとかから、そのうち焼野原やバラックとかから復興してくるとキャバレーとかダンスホールができてくるわけですよ。その時代からですよ。ハワイアンがグンッと人気になったのは。


高木:キャバレーとかは、だいたい2バンドが入るわけですよ。タンゴとハワイアンとか。学生ときダンスパーティーの券を売ったりして。その当時は、ハワイアンもタンゴもルンバもできなければならない(笑)。ダンス音楽ができないとでられなかった。


白石:昔はそれが当たり前だった。


高木:昔演奏していたアメリカのハワイアンソングから今の日本のハワイアンへと時代がかわってきた。


清水:いまなんでもできるバンドって、はっきりいってないです。だからかオッパチとバッキーさんのサウンドは、同じハワイアンでも全く違うものだった。それぞれに個性があったわけなんだよね。大将(白石)なんかは、昔から日本の歌謡曲も含めてなんでもやった(笑)。

 
●最近は日本語で唄われることが多いですよね。

白石:俺はこの頃そうしているんだ。


浅井:その話なんだけど、バッキーさんがディック・ミネさんと仲良くなって、「日本語で唄わなくちゃだめだよ」、と提案して、それで「小さな竹の橋の下で」とかやるようになった。


高木:大橋節夫さんで有名になったよね。


浅井:日本の中じゃあ「小さな竹の橋の下で」はハワイアン・スタンダードになったよね。あれはサッチモが唄っていた。


清水:昔、ハワイアン蔑視な言葉が一時期はやったこともあったよね。日本語のハワイアンはハワイアンではないと。ようするにハワイのハワイアンではないと本物ではないので、僕なんか偽物だと言われたんだよね。僕は似たもの、偽物でいいんだよ。日本人によるハワイアンでいいんだと言っていたんだね。何年か前にプロモーターがハワイヘ行ったとき、ハワイで聴けないような曲をたくさん聴かせてくれた、と大好評だった。そのあと、ホノルルの新聞を僕に送ってくれたの。そこには、「東京スタイルがハワイに来た」と書いてあったの。ハワイでは聴かなくなったナンバーを東京スタイルで聴かせてくれたと。それと、バッキーさんのスチールギターを聴いたミュージシャンが、「ハワイアン・ミュージックではない、東京スタイルだ」と。演奏はグレイトだと。それこそバッキー・スタイル、オッパチ・スタイルだよね。
また、話変わるけど、昔はセンターマイク一本のときは動きがあってとても良かった。先輩たちがよく言っていたけど、「もっとマイクによれ」とか。いま一人一人にマイクがあるから全く動かないのも演奏を見ていてつまらないかなと思うよね。だから踊り(フラ)がないとつまらないと言われるようになったりして。


白石:それにいま、ハワイアン音楽とフラ音楽というのがある。最近フラ音楽は高級性がないかな。もっと個性がないと。


清水:ロマンがないかな。灰田さんの曲はシンプルだけどシンプルなだけに個性的で良かった。もっといろいろなスタイルがでてこないとダメなんですよ。だから出演者が減りつつある。。。


高木:年齢制限してバンドを作るといいんじゃないかな。20代だけでスチールとかウクレレとかでバンドを編成したり。



 
●ジャズはステューデント・ジャズ・フェスティバルなどいろいろとありますよね。

清水:クラリネットの花岡さんと積極的に教えてやってるよね。寺内タケシも学校まわりよくやってるよ。フララダンス甲子園といういわきが中心としてやっているのがあるのですよ。いろいろ問題があるのは、地元の高校より地方のほうがレベル高いわけ。肝心な地元の人たちが、地元の出演者のレベルを知って、あれはなんだ!ってなっちゃうわけ(笑)。指導者のレベルを上げていかないとならない。地元(フラのメッカ)の人達が困惑しているという事実がある。


高木:スティール弾きがいない。ハワイでも少ない。日本でもう少し増えないとハワイアンが増えないだろうね。日本でも昔のようにきちんとスチール弾きがいないと昔のように盛り上がらないと思うんだよね。


清水:ダブル・スティールとか、熱心にやっているのは大将だけ。後進のためにも重要。いまのままでは、今日のテーマでもあるけど未来への展望がない。


白石:やる場がない。発表する場がない。


高木:とにかくバンドでやれるハワイアンが増えないとならない。


清水:オッパチのような模範を示すようなバンドがいない。


浅井:問題は、フラが独自のシーンを持っているわけだよね。違うフィールドになってる。でも生のハワイアンが費用なんだよね。でもハワイアンとフラが分かれていった。
清水:生でテンポがちがったりすると踊れないから、おかかえバンドが必要なんだけど、我々はお抱えバンドになれないからできなくなるんだよね。


浅井:たとえば日本舞踊とか踊り中心のシーンは、おかかえのミュージシャンがいるよね。ハワイアンも本来であれば一緒になって移動していればできたのかもしれないけど、違った方向に進んでフィールドがかわったことによって仕組みもかわった。


清水:あと、フラの先生はできるけど、生徒ができないということも増えた。先生がいろいろと忙しいから、なかなかレッスンできない。だから解決できない。


高木:早い話、フラソングがつまらない(笑)。


清水:それは置いておいて(笑)


清水:これは永遠のテーマなんて言ってられない。早く解決しないとならないね。



 
●今回のハワイアン音楽史Vol.3のサブタイトル「昭和のハワイアンは偉かった」とはどう意味でしょうか?

白井:時代を作ったよね。時代とマッチしたというのもありましたけど。


高木:石原裕次郎が向こうでやったことがあった。ジャズを歌ったわけだけど、ギターが弾けるから聴かせることができる。僕はそれを目指しているけど。


清水:サウンドを持っている、個性を持っている、そういうことが大事で、それでお客さんが選ぶことがえきる。さらにこれからやっていくには新しいものも大事。若い人たちに説得できるような音楽を残していかないとならない。



 
●最後にひとつだけお聞きしたいのですが、ちょっと意味深なのですが、生涯最後に歌いたい、演奏したい曲はなんですか?

高木:僕は「エ・ママ・エア」かな。


浅井:ない。その時の気分だからね。たとえば島の話があるじゃない。無人島に行くとしたら何を持っていくのかって。僕はバッハなんだよ。すべてを包括している音楽を選んじゃうんだよね。その人の生き方がでてくる。


白石:最後ね~。ハワイアンだったら「カマラニ・オ・ケアウカハ」、日本だったら「森の小径」かな。これはすごい曲だと思ってるから。


清水:あの曲はゴミ箱に捨てた曲らしいね。


白石:そうだってね。


清水:灰田さんのウチへ永田さんが遊びに行って、お客が来たからちょっとまっててね、と書いていた紙を丸めてゴミ箱に捨てていって、それを開けてみたら「森の小径」だったと(笑)。


浅井:凄い歴史があるよね。


82歳の白石さんにお元気の源は?とお聞きしましたところ「ストレスのないこと、好きなことしかやっていないから・・・」高木ブーさん、浅井愼平さん、清水峰生さんの人生がハワイアン音楽に表現されるように、話題豊富でトークの最中も大盛り上がり!!話が止まらず、良き時代を生き抜いてこられたお姿が万年青年そのものでした!!



 
インタビュアー:佐藤美枝子
カメラマン:Koji Ota
 
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