特集

インタビュー Vol.19
生涯青春!JAZZ I LOVE
瀬川昌久

●プロデュースをするようになったきっかけは?

ジャズを好きになって、自分が好きなものを是非みんなに聴いてもらいたい、と思うようになって、好きなものをプロデュースするようになった。ようするに聴いてもらいたいから。

●生い立ちからお聞きしたいのですが、そもそもジャズとの初めての出会いは?

3歳のときに、ロンドンで両親が買ってきたレコードを手回しして聴いたのが初めての音楽の体験でジャズとの出会い。

●ロンドンに住まれていたのですか?お父様のご職業は?

当時、東京市に務めていて、関東大震災の復興のためにフランスから外債を借りて復興にあてたわけ。父がその返済の交渉の担当者だった。父は毎週のようにロンドンからパリへ行って東京市が返済していく方法を話し合っていたのです。ほとんど夜は僕一人が鍵かけられて家にいたりしたのです。蓄音機とSPレコードがあったので一人で聴いていた。初めて聴いた曲は、ジェローム・カーン“フー?”という曲。それは当時“サニー”というミュージカルがブロードウェイでヒットして、ロンドンでも盛んに上演していた。おそらく両親もそれを観にいって、レコードを買ってきたんだろうと。なぜか子供心に印象に残っていて耳に残っていて、母も好きだったみたい。母は100歳まで生きていたのだけど、晩年病床にいたとき、夜中に寝言で歌っていたと看護婦さんが教えてくれた(笑)。母は完ぺきに覚えていたのですね。日本に帰ってきて、昭和3年に日本語で歌った “あほ空”、裏面が“アラビアの唄”が出た。それが日本語で歌うジャズ・ソング第1号であったわけです。

●先生は何歳までロンドンに?

えーとね、3歳から5歳までかな。日本に帰ってからも歌詞がわからなくても何となく憶えていたんだね。その“フー?”というのはアメリカではスタンダードですよ。日本ではね、あまり歌っている人はいないけどね、マーサ三宅さんはよくご存じだと思う。ジェローム・カーンは有名な作曲家で「ジェローム・カーン・ソング・ブック」というのがあったりしますけど、かならずこの“フー?”は入っています。

●しかし、なんてモダンなご両親で。すばらしい環境だったのですね

戦争中はグレン・ミラーなどの音楽が入ってきて、戦時になって禁止されちゃったけどね。ベニー・グッドマンとスウィング・ミュージックとかもの凄く良い音楽だと思っていたから、インドネシアなどの東南アジアの歌などをグレン・ミラー・スタイルにアレンジして演奏すれば、ようするにアジア全域に良い音楽が広げることができるのにな、と思って、学生の頃にそのようなことを書いてね、野川香文さんに手紙を出したこともある。


書斎にて


お洒落も筋金入り!生涯トラッド派

●その野川さんとは?

日本の音楽評論家として活躍されていた第一人者です。その後には、野口久光さん、油井正一さん、デキシーランド・ジャズでは河野隆次さん、まあ、その御四方は戦前からジャズの評論家で私が一番影響を受けたというのはそういった方々の記事を読んでいって益々ジャズを好きになったわけです。

●先生の初めてやったプロデュース公演は?

昭和20年、終戦の年の12月。僕は昭和19年に学徒出陣で海軍へ行ったわけね。8月15日に日本が負けて、その日にポツダム海軍主計少尉になった。当時マッカーサー司令部の命令で海外にいる日本の軍人を日本に連れて帰らせるということになり、復員省の復員船、氷川丸(太平洋戦争で唯一沈没しなかった)に志願した。そして9月ごろから南方各地をまわって、取り残された日本兵を連れて帰った。これは大変な作業で。。。部下の少年兵たちが3,000人食事を作らないといけない。そういう食事を作るところはすごい熱気でまいっちゃうくらい。そんな彼らを慰問してやろうと、日劇に南十字星とその楽団というのが出ていたので、楽屋まで行って「横浜まで来て氷川丸で演奏会をしてくれないか。乗組員が疲れていて大変だから慰問してあげたい」と交渉した。僕は主計の士官だから、衣服と食糧を握っていたから、僕が伝票切ればいくらでも使えた。戦時中は久里浜に海軍の配給所があって、ミルクや肉の缶詰など色々なものが蓄積してあった。終戦後にそれを復員船のために使っていたので、楽団に「お金は渡せないが、食料はいくらでも出すから来てほしい」と伝えたら喜んで来てくれた。それでトラックで有楽町まで迎えに行って、横浜まで連れてきて、船の上で移動演奏会を開いた。よく考えてみたら、これが僕の初めてプロデュースした公演ですね。

●うわー、すごいですね。それは社会貢献にもなりましたよね。先生は今年でプロデュース歴69周年ですね。

そしてそれと、アメリカの憲兵、つまりMPが氷川丸に乗船して船内を監督しているのだけど、そのMPが携帯ラジオをぶらさげて船の中をまわっているわけですよ。そこから進駐軍のラジオ放送が聴こえていて、いつもジャズ・ソングが聴こえてくる。“センチメンタル・ジャーニー”なんて朝から晩まで流れていた。それで曲を憶えちゃって、そういうのもリクエストして、南十字星とその楽団に演奏してもらったの。

●南十字星とその楽団はどんな編成だったのですか?

タンゴ編成だったのですよ。弦とアコーディオンとサックスなど、全部で10人ぐらい。永岡志津子さんという戦前の童謡歌手が専属歌手でした。“センチメンタル・ジャーニー”を歌ってくれましたよ。彼らも夜は進駐軍の慰問をやっていましたから、アメリカのジャズも演奏している。

この復員作業を大学に戻る翌年の4月まで(約8ヶ月)やっていた。そういえば先日思い出したけど、ラバウルから何千人と連れてくるとき2、30人の女性も連れて帰ってきた。進駐軍の命令で釜山に降ろしていた。戦争の途中で飛行機もなにもかもなくなっていたから日本に勝つためにもう支障がないと判断して、アメリカはラバウルを見離しちゃった。だから戦争後期のラバウルの日本の兵隊は自給自足して生き延びていた。わりと元気でした。ニューギニアの人たちは大変な戦争でみんな餓死寸前。動けない人は布団にくるんだまま船に積み上げて安心してそのまま息絶える人も多かった。船には火葬場もありました。その当時は僕も米一俵を担げましたよ。

●想像できないですね・・・。

皆で働かねばいけないからね。17、8歳の屈強の少年兵が多くて、良く働いてくれてね・・・。

●そして大学に戻られたわけですね。

そう。大学に戻って、大学では運動部の資金稼ぎのためにダンス・パーティーというのが凄く流行っていた。ダンパー全盛時代ですよ。ようするに学生の楽しみというのがダンス・パーティーしかなかった。だから、ダンス・パーティーの主催はしましたね。戦後、野川さんとも親しくなりましたから、野川さんにお願いして、その当時のベスト・プレイヤーを集めてコンサートを開いた。切符が高くても売れた。

●どのようなメンバーでしたか?

レイモンド・コンデさん(cl)、馬渡誠一さん(as)、南里文雄さん(tp)、フランシスコ・キーコさん(p)、それにジミー荒木さん(as)も来てくれた。

それから、55歳の定年退職後に開いたのが、「The Jazz I Love」でした。(昭和54年(1979年)10月21日(日)読売ホールにて開催)今回、平成26年(2014年)6月17日(火)渋谷区文化総合センター大和田伝承ホールで開催するのが第2回目です。


オールド・ボーイズと水森亜土ちゃんと


服部良一さん


ジミー原田さん

●そうなのですね!すごいですね。35年ぶりの先生にとって想い出深いプロデュース作品ですね。

いまのジャズ・シーンがあるのは戦前のジャズメンがいたからこそだと。アメリカの真似だけではなくて、服部良一さんなどの日本のオリジナルも非常にジャズ・フレイヴァーな作品があったということ、そして日本のオリジナルのジャズ・ソングを世間に知らせたかった。戦後の風潮というと、日本の流行歌とかはジャズなんかとは全く関係ないと、アメリカのものをどんどん入れないとだめだと、ようするに服部良一さんをはじめとするジャズは、批評家から軽視されていたわけです。でも僕はそうじゃないんだと。要するに、戦前のジャズメンの努力があって今日の日本のジャズ・シーンがあるのだと、そういうことを訴えたかったのですよ。その第1回目は、戦前で活躍されていた方を呼んでね。

そう、オールド・ボーイズを作ったのはこの5年ぐらい前だった。大森盛太郎さんに相談して、谷口又士さんをリーダーにして、はじめにピアノは、柴田喬さんだった。それから増尾博さん(p)、関沢幸吉さん(tp)、上野正雄さん(cl)、馬渡誠一さん(as)、ベースは小原重徳さん、ドラムはジミー原田さん。ジミーさんが谷口さんのあとリーダーになった。ジミーさんはカッコ良くて立っているだけで絵になりましたね。中国へ行った時は楽友会バンドも一緒。リーダーはアルトの大川幸一さんだった。すごくハンサムだったよね。いまでもお嬢さんが楽友会にいらっしゃいますよね。

もう一つこの時、小川俊彦さんに頼んでジミーさんの二世の原田イサムさん(ds)、原田忠幸さん(b)、西条孝之介さん(ts)、五十嵐明要さん(as)、福島照之さん(tp)、光井章夫さん(tp)、ら一流奏者を集めたオーケストラを組んで、戦前のジャズ・アレンジャー服部良一さん、杉井幸一さん、佐野鋤さん、大森盛太郎さんらの名編曲を再現して貰った。これは大変に貴重な記録でいつかCD化したいと思っています。


ジミー原田とオールド・ボーイズのみなさんと


ディック・ミネさんと

●ジミーさんとのオールド・ボーイズは、十数年続いたわけですけど、いっぱい思い出がありすぎると思いますけど、中国へ行ったときの思い出を教えてください。

あれはね、昭和59年、オールド・ボーイズの中国公演は、ジミーさんの芸人魂が中国で発揮できてとても受けた。“月光値千金”や“北国の春”はよかった。ジミーさんが中国の女性歌手を抱きかかえるように歌った。いまでは中国であんなポーズはできないかも知れない。今度、外山さんと映像を交えながらやりましょうよ。


ジミー原田とオールド・ボーイズ

●その中国は何がきっかけだったのですか?

BMCという制作会社の森さんという社長が中国と密接に文化交流をやっていた。まあ、やってみたら凄い人気になってしまって、北京でのコンサートは昼夜2回公演をやってくれと言われましたね。

●いまや、日本のミュージシャンが和平飯店でやってきた、という方も多いですが、そういう道しるべを作ったということですね。

そうだね。面白かったのが、中国のミュージシャンもサックスなどで参加したのだけど、クラシックを勉強してきているから演奏はうまいのだけど、アドリブができない。でも演奏がうまいからフリージャズ風でかっこよかったよ(笑)。そのあとも交流があって日本にも来てくれました。

●ニューヨーク時代にアメリカでジャズを聴いたのは?

昭和28年に銀行業務でアメリカへ行ったときに夜に。12月のカーネギーホールでは、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピ、バッド・パウエル・トリオ、ビリーホリデイが第1部。第2部はスタン・ケントンのビッグバンドで、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピがゲスト・ソリストとして加わって演奏したわけ。ラジオでこの公演があるとアナウンスを聞いたとき飛んでいって切符を買った。超満員。黒人のお客さんが多かったね。それに、パーカーは晩年で、この2年後に亡くなっている。ビリーも晩年ね。とにかくパーカーの音がでかい。ステージの真ん中に立って、姿勢が良い。まるで仁王立ちように。ホール全体に響き渡る。音量と音色にびっくりした。

●元々クラシックの殿堂ではなかったでしょうか。結構残響音とかあったのでは?

でも1938年のベニー・グッドマン以来ジャズも盛んになった。マイクが真ん中に1本立っているだけ。でも良い音でしたよ。当時ね、パーカーはアメリカで凄い人気だった。晩年はストリングスを入れたムード・ミュージックやラテンのレコードを随分出していた。そういうのは割と聴きやすいから、ニューヨークを歩くとパーカーの曲がよくかかっていた。当時はSPの時代ではなくて、EP盤。随分買ってきましたよ。

●ジャズ以外は何を聴いていましたか?

ラテンは今程盛んではないがボールルームでやっていました。ライブハウスではバードランドの最盛期でした。

●先生自身は楽器をやろうと思ったことは?

そのヒマがなかったね。昔はハワイアンが盛んで、銀行にハワイアン・バンドがあって、ウクレレをやろうと思ったけど、難しくてやめてしまった。

●会社でバンドですか!?

会社によっては、ビッグバンドやタンゴ・バンド、ハワイアン・バンドもある時代でしたよ。

●先生の素晴らしい家庭環境の中ではピアノをやっていそうでしたが・・・。

ピアノは娘や孫は習っていますが、僕は残念ながら出来ない。昔は歌謡曲の楽譜を買ってきて右手でメロディだけ弾いて覚えましたけどね。


書斎にて

●幼少時、ロンドンにお過ごしになって、そういう家庭環境が先生の人生に大きく影響されたということですよね。

はじめに話したように、ジェローム・カーン作曲の“フー?”だけは覚えていますね。

第1回目の「THE JAZZ I LOVE」をやった頃は、戦時派がかなりいたけど、いまは戦後派でもなかなか集まらない時代になっちゃってるからね。ジャズの歴史の繋がりがないわけよ。それを今度のコンサート(6/17「JAZZ I LOVE」)でね、日本でもこういうジャズの歴史があるんだというのを伝えていきたい。

今度のコンサートで日本語の“ダイナ”をやるのは、南里さんが既に昭和9年(1934年)にルイ・アームストロングの“ウエストエンド・ブルース”のソロを聴いて、“ダイナ”の前半で吹いているわけですよ。おそらく今の若い人はそういう事実を知らない。それから“ラッパと娘”にしても、1937年というルイ・アームストロングが出てた「画家とモデル」という映画があって、マーサ・レイという大口で有名な女優が歌ってルイ・アームストロングがトランペットを吹いている“パブリックメロディNo.1”という変な曲名があるのだけど、それを服部良一さんが観て、日本でも笠置シヅ子とトランぺッターを結び付けて歌とトランペットの掛け合いのホットなジャズ・ソング曲を作ろうとなったわけ。

●それが“ラッパと娘”なわけなのですね。

そう。日本のジャズを作った人達は、みんなルイ・アームストロングのジャズを継承して、そこから学んできているわけですよ。そういうのを音源と言葉で残していきたいわけよ。僕がいなくなってもこの音源と映像を後で誰かが聞いてくれればいいんだよ。

●いなくならないでくださいよ!(笑)これを今後も続けていきましょう。

いま、ルイ・アームストロングを再現できるのは外山さんしかいない。今回はルイの25~29歳までの大ヒット曲、いまに残る名演を70歳の外山さんに再現していただく、ということなんだけどね(笑)。願わくば、いま20歳代のトランぺッターが育っているのだから、そういう人たちがこういうものに挑戦してもらいたいね。それとね、ルイ・アームストロングというとダミ声の唄ばっかりが流行っているけど、それだけだと継承にならない。ようするにルイがインプロビゼーションの基礎を作った。アメリカのウィントン・マルサリスも「ジャズはアームストロングが作った。アームストロングさえ勉強していればジャズは十分だ。」と言っているのに日本では戦後のビバップからがジャズのインプロビゼーションが確立したという意見が定説になっている。ルイ・アームストロングの音楽を軽視するのですよ。もっとルイ・アームストロングHOT FIVEのプレイを聴きなさい、と言いたいわけです。

●今回、菊地成孔さんにゲストとしてトークでご出演いただくのですけど、瀬川先生は彼のイベントの最高顧問として出演されていますよね。

どういう訳か、菊地さんの「Bopでダンスを踊る」イベントに呼んでくれるので仲良くしています。

相倉久人さんの新しい本が出て、帯に菊地さんが強烈なキャッチコピーを書いていますが、「ダンスひとつ踊れない君たちに相倉久人の再評価なんか出来ると思っているのかね?」と面白いことを言っていますね。

●今回は若い世代のジャズファンに来てほしいですね。

そうだね。菊地さんの“戦前と戦後”っていうアルバムもとても面白い。やはり伝統というのも考えていると思いますよ。


菊地成孔とペペ・トルメント・アスカラール“戦前と戦後”

●ほんとうに先生はジャズ一途ですよね?

わりと不思議と面白いのが出てくるのですよね。僕がやってほしい、やってみたいなというのをやってくれる人が出てくるんだよね。戦前のジャズ・ソングを盛んにやったり歌ったりする若い人もいますが、ルイの20歳代のHOT5とHOT7を是非研究して吹いてほしいです。

●いま注目のジャズ・ミュージシャンは誰でしょう?

沢山ありますね。安カ川大樹の9人編成のファーイースト・ジャズ・アンサンブル。これは大変面白いですね。それからね、アメリカのものでは、マリア・シュナイダーのビッグバンドは、ギルエバンスの潮流に戻っている感じでいいよね。最近は難しくしているビッグバンドが多いけどもマリアの弦入りオーケストラは超現代的なムード・ミュージックととらえたいですよ。

●これは聞かないといけない!健康の秘訣は?

自分の好きな音楽を夜に聴けばぐっすり眠れる。クロード・ソーンヒルという僕の好きな1940-1950年代のビッグバンドを聴いてる。先日オーディオラボでSPコンサートというのをやったけど。是非聴いてよ。元気になるよ。

●マッサージとかお好きではないとか?

あんまりやるとね。でもね、一時、腰が痛いとき、マッサージに行って治ったね。おかげさまで。あとね、先日テレビで観たけど、朝起きるとき手と足をバタバタ5分ぐらいやると健康に良いって。体が硬くなるから、寝起きはほぐして起きたほうがいいよね。

●先生は目も悪くないし、お耳も良いですよね。お若い。

そうでもない(笑)。

●先生のこれからの目標は?

これだけやれればいいや(笑)。

●いやいや、これがスタートなので。続けていきましょうよ。

そうだね。

  

  
数多くの賞を受賞し、平成26年4月、ミュージックペンクラブ特別功労賞受賞を受賞致しました。

瀬川先生の記憶力と聡明さに驚くばかりか1時間半のトーク中もジャズに対するパルピテーションで頬は紅潮し、目がキラキラと輝きを増し、生きることを楽しむポジティブな強さを感じずにはいられませんでした。先生のストレス解消法は寝る前に好きなジャズを聴くことだそうです。。。もう脱帽低頭です!
日本のジャズ誕生から長い歴史を体現し、今もなお新しいジャズを追求し続けているジャズ界唯一無二のレジェンド瀬川先生。先生がこよなく愛した戦前派のジャズドラマー、ジミー原田さんがステージでよくいっていました「みんな遊びなさ~い。。。遊ばなきゃダメよ~×××」って。楽しく生きるコツはもしかしたら戦前派ミュージシャンから会得されたのかもしれませんね。大正、昭和、平成の時代を元気いっぱいに生き抜く先生はジャズ界の宝です。

インタビュアー:佐藤美枝子

許可なく転載・引用することを堅くお断りします。

2014年6月17日(火)
瀬川昌久 presents JAZZ I LOVE 開催

瀬川昌久 著書

「ジャズに情熱をかけた男たち
―ブルーコーツ70年の歩み」
長崎出版

「舶来音楽芸能史―ジャズで踊って」
清流出版

「日本ジャズの誕生」
青土社
※大谷能生(共同著作)