インタビュー Vol.08
芸能生活50周年記念とビッグバンドジャズの魅力について
小林幸子



当協会には連日、小林幸子さんがジャズをお歌いになるのですか?それは楽しみです!とのお問い合わせを沢山ちょうだいしております。そこで幸子さんには50周年記念のお話しと共にジャズとの出逢いなどのエピソードなども含めて語っていただきたいと思います。
先日幸子さんのコンサートを拝見させていただきましたが、まさにエンターテイメントの世界で、現実を忘れさせてくれるショーに大変、感動致しました。

 
●小林幸子さんの50年の功績を振り返ってみて、とても1時間で語れるものではございませんが、結婚に例えれば50年は金婚式ですが・・・
そうですね〜結婚は新婚なのですが(笑)。デビューした時に50年唄えるなんて思ってもいなかったですし、想像もしていませんでした。デビューした昭和39年、日本は高度成長があって色んなことが一気に変りましたよね。その中で唄ってこれたということは、貴重な50年の生き様を経験させてもらっているなと思います。歌そのものはビッグバンド自体が花形の職業の時代でしたよね、みんなビッグバンドで唄える!って、とても嬉しい事でした。昔はいわゆる「流行歌」と言われていて「演歌」とかのくくりがなかったんです。それが、今はいろいろなジャンルに分けられました。ジャンルも増えたのかな〜。そして、レコーディングの形態も変りましたよね。昔は同録だったのが、今は歌と演奏は別々に収録するのが当たり前。ダメだったら、またやればいいや、みたいな緊張感みたいなものが無くなってきてしまって、ちょっと残念。デビュー当時は同録しかやり方がなかった時代でした。でも、この緊張感が楽しかったですし、臨場感も良かった。レコーディングのマイクもスタンドマイクから有線になって、今はワイヤレスに。音楽の世界も、本当にいろんな事が変わってきた50年ですね。この50年を歩めたことが、今の「小林幸子」をつくりあげたんだと思います。

 
●もともと歌手になりたいと・・
まだ子供でしたし、そういうのはなかったです。歌手になるのは別の世界だと思っていました。父は歌が大好きで、歌手になりたいという夢をもっていましたが、戦争で閉ざされてしまいました。父と一緒にお風呂に入ると、父が東海林太郎さんの歌を唄うんです。子供の私にも唄ってみろ!と言ったら、私がこぶしをまわしてそっくりに唄ったものだから父がビックリ。それから、近所で夏祭りや秋祭りのカラオケ大会があると私を良く連れて行きました。その当時演奏はアコーディオン!ビッグバンドでもあり、オーケストラでもありました。そして、そのカラオケ大会に7歳や8歳の私が出て歌うと、特別賞を貰えるんです。その商品が夏だとおそうめんだったり、秋だったら洗剤だったり。あっ!唄うと何かもらえるんだ。そうすると母が喜んだりして、ただそれが嬉しくって歌っていました。

 
●歌の世界に入られたきっかけはお父様の出された「TBSの歌まね読本」という、素人のど自慢の番組に応募された1枚のおハガキとのことですが、10才で、いきなり運をつかんだ幸子さん。第2の美空ひばりさんと言われて、子供ごころにどんなお気持ちだったのでしょうか?
まだ子供でしたから、歌手としての生活がどういうものかも把握していないうちにデビューしてしまいました。でも、最後の家族会議で自分が言った「歌手になりたい!」という一言に、子供ながらに責任を感じていたのかもしれませんね。10歳でデビューして、東京では四谷三丁目のマンションに一人暮らし。女性のマネージャーさんが身の回りのお世話はしてくれましたが、基本的には1人暮らし。学校には自分でカギを持って出かける。仕事の時間にマネージャーさんに迎えにきてもらう、そんな生活でした。新潟から東京まで、特急ときだと4時間、佐渡号は6時間。もちろんホームシックにもなりました。
でも、楽しんでもいました。芸能界は子供であっても立派な一人の芸能人ですから、男も女も大人も子供も全く関係ない世界です。厳しいことも沢山ありましたが、幼いぶん興味は人一倍あり、何でも吸収していき、この世界にいることを楽しんでいました。



 
●東京オリンピックのあった1964年(昭和39年)6月5日「ウソツキ鴎」でデビュー。当時20万枚という大ヒット。でも、デビューしたその11日後に新潟地震があった訳ですが・・
そうなんですよ〜、もし新潟地震が先にあったら、もしかしたら私はデビューできていなかったかもしれませんよね。

 
●運を引き寄せる何かを持っていますよね。お強いですよ、笑わせる、驚かせる、オマケの精神。唄うだけでしたら皆さんがやっていらっしゃること。でも、それ以上のことを幸子さんはなさる。そのサービス精神はどこからくるのでしょうか?
もしかしたら、母のオマケの精神を受継いでいるのかな〜。うちは、新潟で肉屋を営んでいたんです。母はお惣菜の担当。メンチカツやコロッケ、ポテトサラダ・・。母は、お買い物にきた主婦のみなさんの話を聞いてあげる役。世間話をしながら、ポテトサラダをはかりながら、「お客さん、おまけね!」ってほんの1ハケおまけするんです。
そうすると、ちょっとのおまけなのにお客さんが笑顔でとても喜んでくれるんです。そんな、母の姿、そして歌好きな父の姿をみて育ったからですかね。

 
●ご両親のDNAをしっかり継いでいらっしゃる訳ですね
父と母の性格が全く違うんです。父は人前で唄うのが大好きで、母は裏に隠れているタイプ。そういう母なのに、肉屋をやり出そうと言ったのは母なんですよ。父と結婚し、日本は戦争に負けた。そんな中、これからは肉を食べるようになる!これからは肉の時代だ!と母が言いだし肉屋をやることになりました。父は最初サラリーマンでしたが、お店がだんだん流行り長蛇の列になるのを見て、これはお店を手伝わなくてはいけないと思い、両親でやることになりました。父はお肉担当、母はお惣菜担当。私はお店が忙しいと、乳母車に入れたまま店先に置いておく、そうするとお客さんがあやしてくれるんです。いつも笑っている、人見しりのしない子に育ちました。そして、乳母車の中から、おまけをしている母の姿を見ていたんです。

 
●そのオマケが幸子さんは大き過ぎるんです、そのエネルギーが凄いんです。3000人のお客さんを感動させちゃう、あの、どん帳が上がった瞬間の「ワァ〜!」って、みんなの心をワシヅカミにしちゃうんですね!
今の構成では、まず一曲目に過去の紅白衣装をやっています。つかみが大事だと私は思っているんです。普通にイントロが流れて、センターまで歩いてきて唄って、終わったらそでに帰っていくというだけでは、つまらないと思うんです。3曲同じ様なタイプの曲を聞くとお客さんも飽きてしまう。だから、私はステージの構成の中にも緩急が大切だと思っているんです。デビューした当初、古賀政男先生の「古賀メロディ大行進」というコンサートがありました。古賀先生のお弟子さんが沢山出ます。ゲストの方がジャズを唄ったり、早替えをしたり、いろんな方のステージを見て、いつかこんなことがしたい、あんなことがしたいと、夢膨らんでいました。その時の夢を今、ステージで叶えている感じでもありますね。



 
●この前、幸子さんのコンサート拝見して、ファミリーで楽しめるコンサートだと思いました。2時間のショーが盛り沢山の構成で、カルメン調のダンスあり、マジックあり、小林さんの生い立ちからのヒストリーありと、夢の世界でしたが、本当に小林幸子さんのステージは小さいお子さんから、おばあちゃんまで、ご家族で楽しめると感じました。
私も親孝行のつもりで、新潟の両親を連れて、早く見せてあげたいと改めて思いました。
ありがとうございます。そう言っていただけるのが、一番嬉しいです。演歌という、枠にとらわれず、今小林幸子に出来ることを、精一杯表現したいと常に思っています。
今年は50周年イヤーなので6月から50周年記念コンサートが始まるのですが、サブタイトルは「〜Smile〜」です。笑顔のスマイルです。この一年いろんなことがありました。
その時にファンの方々からいただいた言葉。「さっちゃんはやっぱり笑顔が似合う。」「さっちゃんは元気で明るいのが一番」と。改めて、私は笑顔で元気で明るくなくちゃ!!と思いました。それで、今回私の代名詞でもある「〜Smile〜」をサブタイトルにしたんです。

 
●紅白の衣装の発案は、歌舞伎役者の市川猿之助さん(現在は猿翁)のスーパー歌舞伎をご覧になられて思いつかれたそうですが。そのヒラメキは斬新過ぎて誰も思いつかないことですし、思いついたとしても実行するにはスゴイ、エネルギーがいると思いますが、思いついたらトコトンいくタイプでしょうか?
とにかく、お客さんに楽しんでいただくにはどうしよう?といつも考えています。そして、お客さんに楽しんでいただくには、自分も楽しんで面白がること。私の周りにいるスタッフも常に楽しんで面白がって、アイデアを出してくれます。自分たちが面白がっているので、エネルギーも出てくるんでしょうかね(笑)



 
●あがり症とのことですが、本番の前はどうされるのでしょうか?
本番直前はもうすっごくあがるんです。でもステージに立ち本番が始まると、楽しくもなるし、何がおきても事実として受けとめられるんです。子供の頃から親と離れ、大人の世界でずっとやってきたので、何かに頼るとか甘えるということが、出来なくなったからかもしれません。だから強く見られるのかもしれませんね。
 
●落ち込むことはあるのですか?
ありますよ〜(笑)昨年はどれだけ大変だったか。。。(笑)
でも沢山のファンの方やスタッフに支えられ、笑顔で前に進んで行こうと思いました。

 
●昨年渋谷のタワーレコードで新曲発売記念イベントの時に、幸子さんのライブを拝見して昼間から泣いたのは何年ぶりだったか。感動させる言葉の力、歌の力を感じました。
昨年発売した「茨の木」は、私の恩人であり親友であり、お兄ちゃんのような存在でもある「さだまさし」さんに作詞作曲していただきました。この曲は、今世の中で耐えているみんなへのメッセージソングなんです。「頑張りすぎない あきらめない」「いつか 花は咲く」兄いの言葉の凄さ。そして、この言葉を皆さんに届くよう唄いました。その涙は、届いたのかな?嬉しいです。
 
●1998年全曲、宮川泰プロデュース・笠置シズ子のカヴァーアルバム「小林幸子ブギを唄う」発売。
当アルバムの発売を記念して、演歌歌手では初めてジャズの殿堂ブルーノート東京にてライブ「35th ANNIVERSARY Boogie&Blues」を開催されましたが・・
笠置シズコさんの事を知っている方も大分減ってしまいましたね。
昔、服部良一先生に「笠置くんの歌を君が歌い継いでいってくれ」っていわれて、それまでももちろん大好きだったんですが、改めて「笠置シズコ」さんを意識するようになり、35周年の時にカヴァーアルバムを出すことが出来ました。その時、宮川泰先生にお願いすることになり、名匠宮川組というピックアップメンバーでレコーディングをしたんです。これがレベルが凄く高くて、凄く良いアルバムが出来て、CDだけじゃもったいない、ライブもやりたいね〜!よし、ライブをやっちゃおう!と。そしてせっかくなら「ブルーノート」でやりたいという話になり、最初は無理かと思ったのですが、引き受けてくださり、「35th ANNIVERSARY Boogie&
Blues」を開催することができました。すごく楽しく、大盛り上がりでした。


 
●人との出逢いはかけがえのない財産だと思いますが、小林幸子さんという偉大な歌手が誕生するまでに、お父様と古賀先生のほかに、もし、他にあげるとしたら、どなたとの出逢いが、小林幸子さんの運命を羅針盤のように大きく導いてくださったと思いますか?
33年前から付き合いの「さだまさし」さん、 さだ兄と私は呼ばせて貰ってるくらい仲良し。音楽の事、人生の事、いろんな相談にのってくれて、私をずぅっと支えてくれてたひとつ年上の兄貴です。
子供のころからの憧れ続けた「シルヴィ・バルタン」も私に影響を与えた歌手の一人です。つい先日「シルヴィ・バルタン」のライブに行ってきました。凄かったです。凄く嬉しかったです。「あなたのとりこ」とか「アイドルを探せ」とかを唄っている姿をみたら、頭では何も考えていないのに、気がついたら涙が出ているんです。何で泣いているんだろう、私どうしたの?ってくらい泣いちゃって。多分自分が物心ついた時に憧れて聴いていて、きっとその当時にかえることができたんですよ。私もコンサートやライブで「雪椿」などを歌うと、お客さんが泣いているんです。その方の人生と重ね合わせて、私の歌を聞いて泣いて下さるんだと思うんです。それと同じように「シルヴィ・バルタン」で感動し、涙がでました。

 
●ライブなどは良く行かれるのですか?
沢山いきます。映画とかも一日3本みたり、歌舞伎やミュージカル、ジャンルを問わず、興味があるものは何でも観ます。
面白いものはすごく刺激になりますし、面白くないのもある意味、凄く刺激になりますよ〜。見終わって家で、なんで面白くないか、どうしてああ表現したのか、なんて分析しながらお酒を飲んじゃいます(笑)。だから、どんなものでも勉強になります。

 
●昨年10月に、自主レーベル「サチコ・プレミアレコード」を立ち上げられましたが、自主レーベルはいかがでしょうか?
本当にやることは増えましたしスタッフ一同大変です。でも、やっぱり面白がってくれるスタッフですから、やったことが無いことも、やっていることが面白く勉強になります。自主レーベルはある意味自由です。そして、新しい出会いも沢山あり、とても勉強になります。色んなことができるという発見がありますね。今までは、守られていたかもしれません。多くの事をやって頂いていたことも改めて感じました。今はやることも沢山で大変ですが、これからも自主レーベルを楽しんでいきたいですね。

 
●プロモーションから何から幸子流でできる訳ですよね
そうですね!今までとは違う
アプローチやプロモーションを、どんどん考えていきたいですね!


 
●芸能生活50周年記念のスタートを台湾で切ったそうですね。
2月22日23日には、台北でコンサートを行われたそうですね。7トンの機材、40人のスタッフの動員で、お客さんも3000人の会場が満席。そして、翌24日は第24回台湾ランタンフェスティバルという台湾で一番のお祭りの点灯式に日本人歌手として初めて招かれ、 広大な会場には約50万人来場。3年前から台湾観光親善大使の幸子さんは、メインステージで政府要人を始め、10万人近い観客を前に「幸せ」を歌われたそうですね。
50周年イヤーの今年、台湾でのコンサートイベント出演でスタートを切らせていただきました。台湾の皆さんは本当に温かく迎えてくださり、最高のスタートになりました。日本でのコンサートツアーは6月5日がデビューなので、6月からスタートします。
そして、ビッグバンドフェスに出演できることは楽しみにしています。50周年はいろんなことをやっていきたいと思っています。

 
●50年間には様々なジャンルの楽曲に挑戦されていらしたと思いますが、ジャズとの出逢いはどんなきっかけでしたでしょうか?
10歳でデビューして、売れない時代に、キャバレーなどでも仕事をすることが沢山ありました。そんな中、お客さんに合わせていろいろなものを勉強し唄いました。
シャンソン、ブルースそしてジャズも!15歳くらいに歌い始めました。そして、今ではディナーショーなどで唄わせて頂くことがあります。
どんなジャンルも、音楽は凄いんです。人間は普段、言葉を使ってコミュニケ―ションをとることが多いと思います。でも言葉だけで埋め尽くせない部分を、音楽が埋めてくれる事があるんです。

 
●名言ですね。
古賀先生がとても素晴らしい言葉を残してくれました。「チビね、歌はご飯じゃないから、歌でお腹いっぱいにはならないけど、人の心を温かくすることはできるんだよ。どんなに食べても、お金がたくさんあっても、心は温まらない、でも、歌は心を温かくすることができるよ。」って。
私の心に残っている一番の名言です。

 
●5月3日ビッグバンドフェスティバルでは、普段なかなか聞くことのできない、幸子ジャズを唄っていただきますが、全国からお集まりいただく熱烈なファンの皆様に最後、メッセージを宜しくお願いします。
ビッグバンドは音楽が華やかですよね〜。花形でスタープレーヤーも沢山いらっしゃいますし、ビッグバンドはどんどん進化して当り前だと思います。その良さを若いひとにつなげていきたいと思っています。私が違うジャンルの歌い手としてビッグバンドフェスに参加することが、話題になることができれば、ビッグバンドが広がっていくことの1つかな、って思っています。そのお手伝いが出来たらいいなって。

 
●また違った小林幸子さんを魅せていただけることが楽しみです。
みんなで楽しみましょう。笑顔になりましょう!!スマイルの精神で。音楽は本当にウキウキします!!

 
●こらからも、お元気な幸子さんスマイルと幸子さんがクリエイトされる「ドラマチック艶歌」で私たちに夢の続きを魅させてください。
私は小林幸子さんを国民的歌手と呼ぶに、もっともふさわしい方だと思いました。その称号は国民から与えられたいちばん尊く、名誉あることではないかと思っております。大スターなのに本当に申し訳ないほど謙虚でいらして、始終笑いに包まれた楽しく貴重な お時間をありがとうございました!!

 
インタビュアー:佐藤美枝子
カメラマン:Koji Ota

 

シングル
茨の木
KSPR-1001
2012/10/17発売

 
2013年5月3日(金・祝)「BIG BAND FESTIVAL 2013 Vol.15」パンフレット掲載 許可なく転載・引用することを堅くお断りします。